非常識超越平和思想のすべて~遥かなるおっぱっぴーの世界へといざなう~

はじめまして。おっぱっぴー芸術思想家KeithUと申します。自分なりに考えた平和思想を綴りたいと思います。10年間、いろいろ宗教や思想や哲学、政治などを学んだ結果、それをベースに自分で世の中がどうすればよくなるのか?平和になるのか?という観点でオリジナルの思想を考えてみました。おっぱっぴー平和思想=非常識超越平和思想or非常識超越平和理論といいます。ツイッターでは天才とある程度評価されていて、令和哲学者ノ・ジェス氏の関係者の方にSAMURAI1000に推薦された経験あります。

非常識超越的平和=おっぱっピース

非常識超越的平和=おっぱっピースとは?

  こんばんは、おっぱっぴー芸術思想家KeithUでっすm(__)m

 いよいよ、このブログも終わりの方に差し掛かったというか勝手ながらに大詰めになってきました(;^_^A( ̄▽ ̄;)なので、そろそろまとめのお話をしたいと思います。今回のテーマはずばり非常識超越的平和(もしくは非常識超越平和)=おっぱっピースです。何やらまたあやしい宗教チックな用語が出てきたよ~と思った方もいるかもしれませんけど、これは別に宗教的なものでもなんでもなく、この非常識超越平和思想(もしくは非常識超越平和理論)の目指すところの平和の世界のことを指します。一体なんぞや?と思われたかもしれませんが、前回の記事の非常識超越人のことを思い出してみてください。これは天才ニーチェ先生超人思想からヒントを得て思いついた用語なのですけど、これは前回の記事にあるように「イノベーターを超えるイノベーター」のことです。つまり単なるイノベーションだけだど環境問題やその他様々な社会的問題を引き起こすリスクのことを以前お話ししました。原発なんかがまさにいい例ですよね?それだと根本的な問題解決にならずにいつまでたっても世の中は平和にはならないということかと思います。なので、もはやそういった諸問題すら解決してしまうくらいの超ものすごい大天才的なイノベーションを起こせるイノベーターのことを私はあえて非常識超越人と呼ぶことにしました。まあ、そんな大天才は歴史上にほぼいないと思います。ってかアインシュタインニュートンですらそれに至ってはいないと思います。なので僕が思いつく限りでは、この人類史上ではほとんどそんな人物は存在しないと言えると思います。

 つまり、ニーチェ先生の発案した超人思想みたいにもはや架空の哲学理論チックな概念です。僕が勝手に空想したフィクションであり架空の人物です。つまり突然変異で現れた空想上の大天才のことです。でも、もしそんな人物がこの先の人類史上に突如現れたとしたらどうなるか?人類はいままで幾度となく滅亡に危機に晒されてきたけど、その度に危機を乗り越えて立ち上がってきた歴史があります。なので、そういう人物が今世紀かあるいは来世紀中に現れたりする可能性だってまったくのゼロではないはずです。

 そしてそういう人物がイノベーションを超えるイノベーションをこの世にもたらし、この世の肯定的非常識の総量が無限大に近づくとある奇跡が起こると僕は信じています。つまりイノベーションを超えるイノベーション=この世の奇跡が起こりこの世の問題は徐々に解決していくということです。

  もちろんそういったこの世の奇跡が一度起きたくらいではこの世は平和になるとは限りません。だからそういうことを何度も何度も繰り返しそして絶え間ない努力をして初めて世界は平和へと限りなく近づくと考えます。それがつまり非常識超越的平和=おっぱっピースなのです。

 

全人類の知恵の総結集がおっぱっピースをもたらす?!

 しかし、よくよく考えてみたらそういう歴史上にほとんど存在してこなかったような大天才がこの先も現れる可能性なんて本当にあるのか?という可能性もあります。過去になかったことは未来にもない、という可能性だって否定はできません。そういう場合は、もはや全人類が知恵を振り絞ってその知恵を総結集させれば、そういう歴史を超越した超大天才の存在すら超える力を生み出せる可能性だってあると思うのです。

 どんな大天才でも一人でできることなんてたかが知れてます。どんな天才でも世間に認知されなければ何もできない無力な一人の人間に等しい・・・そう考えたらそんないつ誕生するかも分からない超天才が現れるのを待つより、一人一人が知恵を振り絞ってお互いに協力し合い、無限大の可能性を秘めた大奇跡を起こせばおっぱっピースの実現も不可能ではないと考えます。

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世界が平和でありますように。

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English Translation

#13 No common sense transcendental peace

 

 

Finally, this blog has reached the end (;^_^A( ̄▽ ̄;), so I would like to talk about the summary. The theme of this time is no common sense transcendental peace. Some people may think that I have come up with some suspicious religious terminology, but this not a religious thing. However, it refers to the world of peace that this no common sense transcendental peace thought (or no common sense transcendental peace theory) aims for. Please remember no common sense transcendental human, which is a term I came up with after getting a hint from the genius Professor Nietzsche's superhuman thought, but as I said in the previous article, it means "an innovator that surpasses an innovator." In other words, I talked about the risk of causing environmental problems and various other social problems even if it is just innovation. A nuclear power plant is a good example, isn't it? I think that the world will never be peaceful, so I dare to call an innovator who can create a super-great genius innovation that can solve even such problems as no common sense transcendent human. Well, I don't think there are many geniuses like that in history, and I don't think even Einstein or Newton have reached that level, so as far as I can think of, there are almost no such people in human history. I think you can say that.

In other words, it is no longer a fictitious philosophical theory, like the superhuman thought proposed by Professor Nietzsche. It is a fictional and fictitious character that I fantasized about. In other words, it is an imaginary great genius who appeared by mutation. But what would happen if such a person suddenly appeared in human history ahead? Humankind has been exposed to the crisis of extinction many times until now, but there is a history of overcoming the crisis and standing up each time. Therefore, the possibility of such a person appearing in this century or in the next century should not be completely zero.

And I believe that when such a person brings innovation that surpasses innovation into the world, and the total amount of positive no common sense in the world approaches infinity, a miracle will occur. In other words, innovation beyond innovation = miracles in this world will occur and the problems of this world will gradually be solved.

  "Of course, the world won't always be at peace just because a miracle like that happened just once." Therefore, I believe that the world will come infinitely closer to peace only by repeating such things over and over again and making constant efforts. That is no common sense transcendental peace.

Will the collective wisdom of all mankind bring no common sense peace? !

However, if you think about it carefully, is it really possible that such a great genius who has hardly existed in history will appear in the future? We cannot deny the possibility that what did not exist in the past will not exist in the future. In such a case, if all human beings gather their wisdom and bring it all together, I think it's possible to create a power that surpasses even the existence of such a super-great genius who transcends history.

"I know how much a genius can do alone." No matter how genius you are, you're like a helpless human being who can't do anything unless you are recognized by the world. We believe that if we work together and create a miracle with infinite possibilities, it is not impossible to realize no common sense transcendental peace.

非常識超越人=超おっぱっぴー人

非常識超越人とは?

 こんばんは、おっぱっぴー芸術思想家KeithUですm(__)m

明日からまた仕事だっていうのになかなか寝れないからこの記事だけ書いて寝ます。今回のテーマはずばり非常識超越人というものです・・・また意味不明な言葉で何のこっちゃ?と思われたかもしれませんが、これは今までの記事でご説明してきた内容を総まとめした最後の重要なテーマだと思います。一番重要な内容でこの非常識超越平和思想の一番言いたいことと言ってもいいくらいかもしれません。

 まず、今までの記事の内容をおさらいすると以下の内容が出てきましたよね?

<常識と非常識の循環プロセス>

否定的非常識→肯定的非常識→新たな常識→狭義のおっぱっぴー→否定的非常識

まず、時代の先を行くイノベーションは最初は否定的非常識として分類されまったく評価されないが、次第に「これは斬新なアイディアだ」と認められれば肯定的非常識に分類される。そして、例えば、それがさらに市場で優位に立ってヒット商品などになればそれが新たな時代のスタンダート、つまり常識となれる。しかし、それも時代とともに古くなればまたそれは時代遅れと見なされ、狭義のおっぱっぴーに降格することになる。そして、それがやがて否定的非常識にまた戻されることになる。

 つまり、この世の中は常識と非常識がたえず入れ替わり、時代とともに進歩していくということです。そして、それがうまく循環してプロセスがうまく回ると常識と非常識のシーソーのバランスが保たれて非常識均衡になるというお話をしました。しかし、実際は世の中は思い通りにならないもので、プロセス自体に何らかの欠陥があったりうまく常識と非常識が循環してまわっていかない、ということがあります。なので、実際はシーソーは左右のどちらかに傾いていることが多いのです。これを仮の非常識均衡ということもお伝えしました。

 しかし、非常識均衡だと何が問題か?ということもお話しましたよね?仮に今の世の中が非常識均衡になっているのだとしても、世の中の問題がすべて解決するとは限らないですよね?これは僕の考えたあくまで仮説にしかすぎないし、実際今の世の中が非常識均衡になってるかどうかも分からないし、仮になってたとしてもそれがこの世界にとっての最適な解なのかどうかまで誰にも分からないし検証がしようがないですよね?さらに言えば、そもそも均衡というのはあくまで概念であって肯定的非常識とか否定的非常識の総量なんてものはそもそも計れないし、どうやって計測するのだ?というお話にもなってきます・・・仮に何らかの概念を用いて無理やり数式化できたとしてもかなりあやしい概念になりそうですが・・・(;^_^A( ̄▽ ̄;)まあ、そういった意味ではこの非常識超越平和思想はあくまで思想とか哲学的なもので、世の中がうまくまわる仕組みを常識とか非常識の観点でモデル化して単純化して説明しているだけなんです。

 しかし、仮にこの非常識均衡では世の中は十分に平和になり切れない?ということが分かったらどうなるでしょうか?もはやさらにすごい最適な解が必要だということになります。この点についても、今までの記事でご説明させていただいたように「肯定的非常識の総量を最大限に増やす。」ということです。どういうことかというと、もはや非常識均衡では世の中が平和にならないのならば、肯定的非常識つまりイノベーションのようなものを起こしまくって、世の中を平和にするしかないということです。いや、イノベーションどころかイノベーションを超えるイノベーションみたいなイメージです。今までの記事でもご説明させてただいたかと思いますが、単なるイノベーションでは新たな問題などが発生することがありますよね?例えば環境問題とかがいい例です。これではいくらイノベーションを起こしたところで、また地球にとって新たな問題が発生することになります。あるいは今、世界各国が躍起になって開発を進めているAI技術もわたしたちの生活を便利にさせるいい面がある反面、もはや行き過ぎると失業者が生まれてしまいかえって社会にとってはデメリットが発生する可能性なども指摘されていますよね?テクノロジーが行き過ぎたためかえって世の中がおかしくなるなんて矛盾してますよね?つまり新たなるイノベーション=肯定的非常識が中途半端に増加したため、かえって世の中の問題が悪化する、ということですね。これは前の記事では書き忘れたかもしれませんが、あえてこのような現象を非常識均衡の崩壊と呼んでもいいかもしれません。肯定的非常識の量が過剰になりシーソーのバランス=均衡が崩れてしまい、世の中が混乱状態になっているからです。そういった意味では肯定的非常識のオーバーフロー(または肯定的非常識の過剰)とも呼べるかもしれません。

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過ぎたるは及ばざるがごとしで何事もやり過ぎるとオーバーフローが起きるようだ。

 それでは、どうすればいいか?というと単純にもはやイノベーションを超えるイノベーションを起こして肯定的非常識の総量を無限大に増やしてこの世界に革命を起こすしかなくなるわけですね・・・

 つまり、それが非常識超越人=超おっぱっぴー人の正体です。もはやイノベーターを超えたイノベーターと言ってもいいです。それくらいのすさまじい大天才のことを指します・・・もうこうなってくるとニーチェ先生の超人思想みたいに架空の仮説的になるので、いくぶんか架空の哲学理論みたいなお話になるかと思います。ですが、実際今の地球を見渡せばもはや今世紀中には地球温暖化で僕ら人間はこの地球では住めなくなる?とかそういう危機的状況が迫ってきてるわけですよね?環境活動家がもっと活躍すればあるいは解決可能性もありますが、とにかく企業側とか経済界から反発がすごくあるらしくて中々改善しないらしいです。経済と環境の問題は必ずトレードオフになるからです。だから、もうこうなってくるとイノベーションを超えるイノベーションという名の革命を世の中にもたらせる超大天才の到来を待つしかなくなってくるわけですね・・・そのような架空の人物のことを非常識超越人といいます。もはや非常識すら超越したすごい人という意味です。

 今回も、ご一読ありがとうございましたm(__)m

 

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まさにこの世に新たな常識を生み出す超人力をそなえた人物

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English Translation

#12 No common sense transcendent human

 

​​Negative no common sense→Positive no common sense→New common sense→Common sense that is non-common sense in reality→Negative no common sense

 

​​​​​​​First, innovation that is ahead of the times is classified as negative no common sense and is not evaluated at all, but if it is gradually recognized as "this is a novel idea", it is classified as positive nonsense. And, for example, if it becomes even more dominant in the market and becomes a hit product, it will become the standard of the new era, in other words, common sense. However, if it becomes old with the times, it will be considered outdated and will be demoted to common sense that is non-common sense in reality. And it will eventually return to negative insane. ​​​​​​​

 

​​ 

In other words, in this world, common sense and non-common sense are constantly being replaced, progressing with the times. And I talked about how if it circulates well and the process goes well, the balance between common sense and non-common sense seesaw is maintained, and it becomes an no common sense equilibrium. However, in reality, things don't go as planned, and the process itself may have some flaws, or the cycle of common sense and non-common sense may not go smoothly. So, in reality, the seesaw is often tilted to the left or right. I also told you that this is a temporary no commn sense equilibrium. ​​

 

"But what's wrong with no common sense equilibrium?" We also talked about that, didn't we? Even if the world today is in no common sense equilibrium, it doesn't mean that all the problems in the world will be solved, right? This is nothing more than a hypothesis that I came up with, and I don't know if the current world is actually in no common sense equilibrium. I don't know and I can't verify it, right? Furthermore, equilibrium is just a concept in the first place, and the total amount of positive and negative no common sense cannot be measured in the first place, so how do you measure it? Even if it were to be forcibly formulated using some concept, it would be a rather dubious concept... (;^_^A( ̄▽ ̄;) Well, that kind of meaning Then, this no common sense transcendental peace ideology is nothing more than an idea or a philosophical one, and it is just a simplified explanation of how the world works, modeled from a common sense or no common sense point of view.

 

​​​ However, what if this no common sense equilibrium won't bring enough peace to the world? What if we knew that? This means that we need a much more optimal solution. Regarding this point as well, as I have explained in previous articles, it is to "maximize the total amount of positive no common sense." What I mean is that if the world can no longer be peaceful with no common sense equilibrium, we have no choice but to bring about positive no common sense, that is, innovation, to make the world peaceful. No, it's an image like innovation beyond innovation, not innovation. I think I explained it in the articles so far, but new problems may arise with simple innovation, right? A good example is environmental issues. In this case, no matter how much innovation is made, new problems will arise for the earth. On the other hand, while the AI technology that countries around the world are working hard to develop has the advantage of making our lives more convenient, on the other hand, if it goes too far, unemployment will be born, and it is possible that there will be disadvantages for society. It's a contradiction that the world is going crazy because technology has gone too far, isn't it? In other words, the halfway increase in new innovations = positive no common sense has actually exacerbated the problems of the world. I may have forgotten to mention this in the previous article, but it might be a good idea to call such a phenomenon the collapse of no common sense equilibrium. ​​​

​​This is because the amount of positive no common sense becomes excessive and the seesaw balance = equilibrium collapses, and the world is in a state of confusion. In that sense, it may be called positive no common sense overflow (or positive no common sense excess).

 

So what do we do? In other words, there is simply no choice but to create innovation that surpasses innovation, increase the total amount of positive no common sense to infinity, and bring about a revolution in this world...

​​​​ In other words, that is the true identity of no common sense transcendent human. It can be said that it is no longer an innovator but an super innovator. It refers to such a tremendous genius... If it comes to this, it will be hypothetical like Professor Nietzsche's superhuman thought, so I think it will be a somewhat fictitious philosophical theory. However, if we look at the earth today, will it become impossible for us humans to live on this earth due to global warming by the end of this century? Or is such a dangerous situation approaching? Even if environmental activists stand up for peace of the global environment and the number of such people increases all over the world, it seems that there will be a lot of opposition from companies and the economic world, and it will not be easy to solve the problem. There is always a trade-off between economic and environmental issues. So, when it comes to this, we have no choice but to wait for the arrival of a super-genius who will bring about a revolution in the name of innovation that surpasses innovation. It is called no common sense transcendent human. It means an amazing person who has transcended even the insane or non-common sense.

 Thank you for reading this time too m(__)m

 

非常識超越イデオロギーとイデオロギー超越理論

非常識超越イデオロギーとは?

 こんばんは、そろそろ寝る時間なのですけど、まだ時間があるので連投したいと思います・・・( ̄▽ ̄;)m(__)m

 今回のテーマは非常識超越イデオロギー(もしくは非常識超越次元イデオロギーというやつです(おっぱっぴー的にいえばおっぱっぴーイデオロギーです(笑))

 何のこっちゃ?って思うかもしれませんけど、これはイデオロギーの常識の概念を超えたぶっ飛んだイデオロギー以上のイデオロギーがあればもしかしたら世の中よくなるのかもしれない?!という仮説的発想です。

 世の中には右翼、左翼、中道、保守、リベラル、ポピュリズムとかはたまた無政府主義アナキズム?みたいなのまでもありますよね?政府の「大きな政府」と「小さな政府」のどちらがいいのか?とか色々議論されてますよね?本当にたくさんのイデオロギーが混在していてもうめちゃくちゃで訳わからんって感じですよね?それらすべてが混在していてお互いに議論し合ってよりよいベターな政治的解決方法を見出すのが基本的に民主国家の役割だと思うのですけど、国会答弁とか見てると本当にみんな議論してるというよりかは本当に喧嘩腰に近いですよね?もうほんと些細なことで意見の食い違いが起こるので日本の国会でも各党の口論が毎回絶えない状態です・・・

 僕はこんなことではいつまでたってもこの矛盾だらけの世の中は平和にならんのでは?ってふと思ったんですよね・・・そこから導き出した答えが非常識超越イデオロギーなんです。これは、つまり世界中に存在するありとあらゆるイデオロギーの概念から優れた部分だけ取り入れて混合させればものすごい超スケールなスーパーイデオロギーが生まれるのでは?!って考えたんですよね・・・

 つ・ま・り・・・「いいとこ取りしちゃえ!」的な発想です(笑)( ̄▽ ̄;)

すべてのあらゆるイデオロギーからいい部分だけ抜き取ってがっちゃんこして組み合わせれば本当にこの世の常識を覆すような素晴らしいイデオロギーが生まれるんじゃないのかな?っていう発想です・・・

 まあ、これはあくまで僕の考えた空想の世界というか仮説なので本当にそんなことが可能なのかまでは分かりません・・・でも、もしそれが可能だったらそのイデオロギーは世の中に平和をもたらしてくれるのかもしれません・・・

 そして、それらが可能だと仮定する理論をイデオロギー超越理論(もしくはイデオロギー超越平和理論)と言います。

 今回もご一読ありがとうございましたm(__)m

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イデオロギーについて

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この世界はあらゆる歴史上のイデオロギーが乱立していて混乱の渦に・・・



 

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常識置換or常識凌駕

常識置換or常識凌駕とは?

 こんばんは、おっぱっぴー芸術思想家KeithUですm(__)m

 今回のテーマはずばり、常識置換or常識凌駕です。これは何ぞや?ってことですけど・・・まあ読んでそのままです。簡単に言えば、常識がどんどん新しく生まれ変わっていくということです。今まで常識だと思われてたものでも、時代とともにどんどん新たな常識が生まれると、その古い価値観や常識は非常識へと変わっていくので、そしてそれが新たな常識に塗り替えられる、ということです。

 なんだそんなこと当たり前じゃん!って思われるかもしれませんけど、でもここには一つ落とし穴があります。それは、すんなりとスムーズに古い常識というのは新たな常識に移行するのは難しいということです。

 これはどういうことかといいますと、常識と非常識の循環プロセスなどのモデルで説明できると思います。あるいはそれらの関連記事で今までご説明させていただいたように、世の中には肯定的非常識否定的非常識が存在し、それらから説明できます。

 肯定的非常識というのは世の中にいい影響を与える非常識のことで、例えば画期的な発明品などがこれに該当します。一見、世間では非常識と見られることでも、明らかに世の中にいい影響を及ぼすならばそれはもはや肯定するべき非常識だ、という意味です。逆に否定的非常識というのはこの世界に悪影響を及ぼす悪しき慣習やルールや価値観、はたまた間違った世の中の仕組み自体などを指します。まさに否定すべき非常識だ、ということです。ですが、ここで一つ見落としてならないのは、この否定的非常識の中には当然否定すべき誤った非常識がある一方で、「正しいのにも関わらず間違った非常識として分類されてしまっているもの」も含まれている、ということです。

 これはどういうことかというと、以前も説明させていただいたかと思いますが、「正しいのにも関わらず世間に理解されずに受けいれられなくて結果として評価されなかったもの」とも言えます。例えばあまりにも奇抜な発想の発明品や画期的な革新的なアイディアのイノベーションなどがこれに含まれます。そういうものは正しいように思えても、あまりにも発想が奇抜すぎてその時代の世間に理解されないものとか、あるいは理解されたとしてもコストや技術力などの観点で実現不可能と見なされて却下されるものなども含まれるかと思います。あるいは、既得権益者にとってはこの上なく面白くないアイディアが盛り込まれた発想などは、権力によって潰される、という可能性もあると思います。

 つまり、どういうことが言いたいかというと、この否定的非常識には本当に世の中に悪影響を及ぼす非常識と、本当は肯定的非常識に分類されるべきなのにも関わらず世間に受け入れられずに否定的非常識に分類されてしまっているものも数多くある、ということです。

 これは社会にとっては多いなる損失だとも思えます。本当は世の中をよくすることができる画期的なイノベーションなのにも関わらず、そういった事情で世間に受け入れられずにくすぶったままの状態であるとも言えます。要は正しいのに間違ってると言われているような状態です。

 こういったものをいかに正しく世間に受け入れられるようにして、そして結果として正しく評価され肯定的非常識の世界へと分類されイノベーションとして認識されることが必要だということです。これらの流れをうまく循環させることこそがこの世界では重要なのだと思ってます。

 そして、その新たに評価され生まれ変わった肯定的非常識が今度は世間に正しく評価され、新たな常識へと進化を遂げることが重要なのです。そして、そのようなプロセスを経て新たな常識が古い常識を塗り替えていくことを常識置換or常識凌駕と言います。

 

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新たな常識が生まれるプロセス

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サプライズデイとサプライズ有給休暇

サプライズデイ?!

 こんばんは・・・おっぱっぴー芸術思想家KeithUでっす・・・夜中だというのにまだ寝れないからちょっとだけ記事を書きたいと思いますm(__)m

 今回のテーマはサプライズデイサプライズ有給休暇という私が考えた架空の休日についてです。またもやあやしげだな?と思いましたか?!まあ、そんなにあやしくはないです。簡単に言えばサプライズなことをするという意味です。まあそのまんまなんですが・・・まず、サプライズデイは「その一日だけどんなサプライズをしてもいい日」というものです。エイプリルフールってありますよね?その日だけはどんな嘘でもついていいっていうあれです。そこからヒントを得たというか、サプライズデイとは嘘をつく代わりに、その日だけは他人が腰を抜かしてしまうほど驚くことでも何でもやっていいという日です。例えば、会社の仕事中にいきなり上司が若手社員に向けて学生時代など昔やってたバンドを再結成してオヤジバンド演奏会などの余興をはじめるといったサプライズでもいいですし、街中でいきなりストリートミュージシャンみたいな感じでストリートオタゲーを総勢1000人でやらかす、とかでもいいと思います。何でもありの日ということです。でも、これはあくまでサプライズなので誰にも教えてはいけなくて秘密裏に計画し行動に移さなければいけません。そうじゃないとつまらなくなってしまいますから・・・(;^_^A( ̄▽ ̄;)ちなみにサプライズデイは別名おっぱっぴーデイともいいます。

 

サプライズ有給休暇?!

 次にサプライズ有給休暇ですが、これは社内であっと驚くサプライズな企画を実行し見事成功させた人に与えられる特別有休休暇のことです。例えば、社員食堂でいきなり好きな上司に向けて誕生日パーティーをサプライズで行うみたいなそんな感じです。好きな異性の社員に向けて告白パーティーとかでもいいかもしれません。そういった面白い企画を実行しまわりを驚かせ楽しませ感動させたものは、もれなくこのサプライズ有給休暇がつきます(笑)(;^_^A このサプライズ有給休暇は別名おっぱっぴーホリデーともいいます。

 

まあ、なぜこんなことを考えたかというと、これはおっぱっぴーな出来事を通して世の中をより面白くして感動的にするという意味合いを含んでいます。仕事は何事も面白くなくてはいけないしそのためにはこういう斬新なサプライズ企画をみんながやることで社内の雰囲気が明るくなり仕事も楽しくなるのでは?と思いました。また、日常も普通の国民の祝日だけでは面白くないのでサプライズデイみたいな特別な日があってもいいのでは?!と思いました。

 今回もご一読ありがとうございましたm(__)m

 

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サプライズパーティ!!?

みんなではしゃいじゃお!!!

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一億人総国会議員化計画~国会議員制度と国会議員インターンシップ~

一億人総国会議員化計画

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 今回のテーマはずばり・・・一億人総国会議員化計画です。また訳わからん造語が出てきたよ~と思ったかもしれませんが、これは簡単に言えば「みんな国会議員に一度はなれるような仕組みを作る計画」のことです。その計画の中には、国会議員制度と国会議員インターンシップとあります。世の中、裁判員制度とかはできて、一般人でも裁判に参加できる仕組みができましたが、それを国会議員でもやりましょうというお話です。なんだかんだテレビのニュースや新聞を見るだけだと政治って分かりづらいし、国会議員の先生方が勝手に政治を進めてるだけだと、我々一般人にはなにがなんだか分からないまま政治や法律や社会の仕組みが変えられてしまっているということが多々あります。だから、我々国民が政治にもっと参加しやすい仕組みを作ればもっと我々一般人も政治のことが分かりやすくなるんじゃないか?と思ったんですね(;^_^A

「一億人誰もが気軽に政治に参加できる」

これがこの計画のモットーでありコンセプトです。

国会議員制度

 まず、国会議員制度はこれは裁判員制度の国会議員バージョンです。一日なり数日なり、あるいは1週間なり、会社から特別有給休暇などをもらってその期間だけ国会議員を経験できるという制度です。そうすればみんなが交代で国会議員を人生で一度は経験できるということです。現行の仕組みでは選挙に出馬して当選しないと議員さんにはなれないルールになってます。しかし、選挙というのはご周知のとおりものすごい莫大なお金がかかります。これではお金や地盤のある資産家でないと中々出馬するのは難しいです。あるいは教授や医者や弁護士など立派な肩書きのある人、あるいはタレントや芸能人などは当選されやすいが、見識があっても無名の人や知名度の低い人は当選しにくいことになります。しかし、国会議員制度を作れば誰もが議員を経験できるということになります。一般人にとっては国会が何をやってるのかを経験することで、政治の仕組みがより深く分かるようになるし、国会内でも外部からの意見をより多く聞くことで一般社会が何を求めているのか?がもっと分かるようになるのでお互いにとっていいことだらけということになります。

国会議員インターンシップ

 これも国会議員制度に似てますが、これは国民が交代で参加するのではなく、学生や社会人など国会のインターンシップに参加できる仕組みです。一般企業などはインターンシップの制度が盛んに行われていますが、政治だけはなぜかこの仕組みがないように思えます。非常に閉鎖的でオープンになってない。学生なども国会議員のインターンシップを高校や大学時代などに一度でも経験できれば、政治がどういうものか分かるしそれでいいな!と思ったらそのまま政治家を目指すこともできるというわけです。もちろん社会人でも参加したい人はたくさんいるだろうし、そのような開かれた仕組みにすればよりいいと思います。

 このような仕組みをつくれば世の中はもっと開かれた政治が行えると思います。政治家任せではなく他人事ではなくもっと開かれたオープンな社会になるはずです。これこそが本来の国民主権なのではないか?と思います。

 今回もご一読ありがとうございましたm(__)m

 

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国会議事堂前にて

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週末任意団体プロジェクト?!

週末任意団体プロジェクトとは?

 こんにちは、おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。コロナ騒動の影響で仕事がお休みだったり自宅待機の人も多いのでしょうか?私は5月はシフト制で休みが多かったので記事をたくさん投稿してしまいましたが、もしお時間あるなら皆様に是非読んでいただければという想いで記事を書いてましたm(__)m

 さて、今回のテーマはずばり週末任意団体プロジェクトといったものです。これは簡単に言えば、「みんなが何らかの任意団体を立ち上げて週末に息抜きにボンランティア活動すれば世の中よくなるのでは?」という発想に基づいたプロジェクトのことです。昨今の世の中見ると経済も政治も不安ですよね?ただでさえ日本はずっとデフレで不景気だったうえに、さらにこの先は年金も将来もらえるか分からないし、消費税もこのままどんどん上がってたら私たち庶民の生活も苦しくなりますよね?おまけに中国がどんどん台頭してきてこのままだと日本経済はつぶされるのでは?という懐疑論すら出てきてます。そんな中で、日本政府はいまだにこの現状を打破できる新たな方針を示すことができないでいる。こうなるともはや政治家や行政だけにこの国の将来を任せていいのだろうか?という疑問を僕は感じたんですよね・・・(;^_^A💧

 まぁ簡単に言えばそれがこのプロジェクトを思いついたきっかけです。簡単に言えば政治家や行政に任せっきりではなく、国民一人一人が問題意識をもって社会問題に取り組めば世の中は自然とよくなってくのでは?と思ったのです。おっぱっぴー平和理論とは直接は関係はないですが、世の中をよくするアイディアとしてはこのプロジェクトは肯定的非常識に分類されるものだと思います。

「一人一人ができることは大したことはなくても、みんながやれば大きな力になる!」

というのがこのプロジェクトのコンセプトでもあります。そもそも国会議員ってたかだか500人だか1000人にも満たない人数しかいないわけですよね?地方政府とか官僚や公務員とかも合わせればものすごい人数になりますが、いわゆる私たちの日々の暮らしに直結する政治をまとめてるのは国会議員だと認識しています。彼らはものすごい優秀な方たちで日々日夜どうすれば日本がよくなるのか?ということについて研究したり、法案を作ったり政策をしたり奮闘されてることかと思います。しかし、いくら優秀な先生方とはいえ、これだけの人数しかいない少数の方たちに日本という一大国家の将来はもはや担えきれないと思うのです。大きな負担である国の政治というものに対して、少人数の先生方だけではもはや肩の荷が重いと思うのです。だからこそ、日本の政治は一向によくならないのだとも思ってます。だからこそ・・・政治家に任せきりというか丸投げするのではなく、僕たち一人ひとりが問題意識をもって行動すれば政治家先生何百人の力など遥かにしのぐパワーが生まれるのでは?と思ったのです。

 普通に考えて日本の人口は約1億2000万人くらいいるわけですよね?子供や高齢者は動けないとしても労働人口だけで8000万人前後いると聞いたことがあります。それだけの人数が集まればものすごいパワーを生み出せるに違いないのです。

話が変わりますが、末社という言葉はすでに世の中に出回ってるっぽいです。

www.amazon.co.jp

 この本は読んだことはないですが、起業したい方に向けて書かれた本だと思います。つまりいきなり起業したのではリスクがあるので、まずは週末から副業を始めて徐々に軌道に乗ったら脱サラしてやがて晴れて起業家となることができる、ということかと思います。私はこの週末社長という言葉はつい最近まで知りませんでしたので、いつの間にかちょっとだけ言葉をぱくってしまった形にはなりますが(笑)でも、基本的には週末にそういったことを行うという発想は似てると思います。つまり私たちは平日は仕事や生活に追われる日々で余裕がないので、普段からそんなボランティア活動みたいなことをやるのは不可能ということです。そんなリスクは負いきれないということです。だからこそ週末に息抜きでやればいいのでは?という発想です。息抜きでボランティア活動をして、そして尚且つ世の中の役に立つことができる、という意味で一石二鳥だと思います。

 

なぜNPOではなく任意団体なのか?

 そもそもなぜ任意団体なのか?と思われたかもしれません。それにはまず、以下の任意団体とNPOの違いについて読んでください。すでに知ってる方は読まなくてもいいかと思います。

shimin.hitomachi-kyoto.genki365.net

 つまり、NPOは法人化することで社会的信用を得やすいけど、申請手続きが面倒だったり財務状況を開示したり給料を支払ったり、報告書を行政に提出するなど非常に手間がかかるわけですね。大規模な活動をしたいのならその方がいいかもしれませんが、一個人が週末に気軽に始めるボランティア活動程度でわざわざNPO法人にする必要はないのでは?と思ったからです。

 

なぜわざわざ任意団体を立ち上げるのか?

 ここまで読んだ方で「なぜ自分たちがいちいち任意団体を立ち上げなければいけないのか?」と思われたかもしれません。そんな面倒なことしないで、どこかのボランティア活動に参加するだけでいいのでは?と思いますよね?でも、自分で自ら任意団体を立ち上げることによって以下のようなメリットがあります。

<任意団体を立ち上げることによって得られるメリット>

1.外部のボランティア団体だと自分のやりたいこととニーズが必ずしも一致するとは限らないが、自分で立ち上げれば取り組みたい社会問題に対して好きなようにアプローチをとることができる。

2.自分で自ら行動してやることによって社会問題への意識がさらに向上する。

3.誰かにやらされてやるのではなく、自ら行動することによって責任感が増す。

4.自分だけのやりたいことに取り組める=起業家や社長気分を味わえる。

5.誰かに感謝されることで喜びや感動がます。

6.自分で立ち上げれば半分趣味みたいにして行うことができるし、実際にそこまで負荷もかからないし、空いた時間に自分のできる範囲で行うことができる。

7.人生にメリハリが起きて生きる喜びにつながる。

8.やりがいだけでなく、実際に自分の力で世の中をよくすることができる。

 他にももっと挙げられるかと思いますが、ざっと考えてみただけでもいいこと尽くしですよね?こんな金にもならないことやって何の意味があるのか?と思うかもしれませんが、普段は仕事に追われる日々で週末は趣味もなく特にやることもなくて、人生にうんざりしている人も、こういったことをやれば人生にメリハリがついて生きてるのが楽しくなるのでは?と思います。それでいて世の中をよくることもできるわけです。そして何よりも週末にやることでデメリットは一切生じないということです。週末に自分のやりたいことだけをやり、金を稼ぐ必要もないのでリスクも一切ない、ということです。そう考えるとメリットしかなく、デメリットは一切ない、ということです。あえていうなら自分の貴重な時間が取られてしまうし金にもならない、といったことでしょうか?他にやりたいことがたくさんあって自分の時間が貴重だし、金にならないことは一切興味がない、という方もいると思います。そういう人は無理にやる必要はありません。ただ、週末やることも特になくて日々惰性だけで生きてるとか、人生が退屈で仕方ないとかそういう方で、お金にもそれほど困ってないのなら、こういったことにチャレンジすることで人生が潤うのでは?と思った次第です。

 なので、これはあくまで自分の提案するアイディアであって強制するものでもなんでもないです。ただ、やりたい人だけ賛同してくれたら嬉しい限りです。

 今回もご一読ありがとうございます。

 

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ひとりが動けば世界は変わる。

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矛盾指数=おっぱっぴー指数

矛盾指数とは?

 こんにちは、おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。しばらく記事をアップしてなかったけど久しぶりにまた書きたいと思います。

 今回のテーマはずばり矛盾指数=おっぱっぴー指数という概念です。最初の断っておきますが、すでにこういう概念は存在していて研究者の間で行われていて仕組みがあるのかもしれません。自分は研究者じゃないので知らないだけで・・・( ̄▽ ̄;)でも、もし存在しないのだとしたら、必要な気がしたので考えてみただけです。

 そもそも、この矛盾指数とは何のこっちゃ?と思われるかもしれませんが、これは簡単に言えばこの世の常識と非常識を分類するための指標となる統計データのことです。最初の方の記事でも記載したと思いますが、今までの記事では、常識と非常識という概念を非常にアバウトに扱って書いてきました。そもそも何が常識で何が非常識というのは人それぞれ価値観が違いますよね?だからそれをちゃんと分けて考えないと「常識と非常識の循環プロセス」だけではこの世の仕組みは説明できない、と思うんですよね💧( ̄▽ ̄;)何が常識で何が非常識かが分からなければその循環プロセスの仕組みそのものがそもそも成り立たないですから・・・

 だからその何が常識で何が非常識か?というのを統計データを取って分類するということですね。例えば、ある心理学の何かの分野の何らかのテーマがあったとするじゃないですか?それについてはすでに研究などで実証済みで結果が出てるからこそ、学会で論文が発表されて世間に認知されてるわけですよね?だからこそそういった文献が本屋で売られてるし図書館でも借りられる。だけど、それが果たしてその後時がたっても、本当に世間の人に正しいものとして認知されているのかどうか?ということがあまり認識されてない気がするんですよね。この時代ではこの学術理論は常識だったけど、今ではもはや時代遅れで常識とは言えないとか・・・( ̄▽ ̄;)あるいは、そもそも最初からあまり世間に認知されないまま研究者の間だけで実証研究されて理論として世に出回ってしまったというものもかなりあるのかもしれません。私は研究者じゃないので詳しくは分かりませんが・・・

 そういった事例があるのならば、もはやそれは常識の理論とは言えないのだと思います。世間的にはいまだに権威を振るっている学術理論なのかもしれませんが、もはや世間からはあまり共感されてない分野であり、冷たいまなざしで見られているというものもかなりあると思います。そうなると世間的には一応常識として扱われてるけど、すでに非常識になりつつある=狭義のおっぱっぴー化しているともとれるわけです。

 こういったものはしかし、いったん権威を振るってしまうと中々間違った理論だとは世間的に見直すきっかけというのができにくいのだと思います。すでに権威を持ってしまってるがゆえに世間一般の人は中々「これは権威ある伝統的な理論だけど実は間違ってるのではないか?」と疑問に感じたり抗議したりすることができないということです。そうすると、これはその後も長年ずっと狭義のおっぱっぴーとして残ったままになってしまう可能性が高いということですね。これは避けなければいけないことだと思います。

 そこで考えたのが矛盾指数=おっぱっぴー指数という概念です。できるだけ幅広く世間的に統計データを取って「この理論は正しいと思うか間違ってると思うか」あるいは「矛盾してると思うか矛盾してないと思うか」ということをはっきり明確にすればいいわけですね。それで例えば、9:1とかで矛盾していると感じる人の割合の方が多ければ矛盾有利となり、逆に1:9とかで矛盾していると感じない人の割合の方が多ければ矛盾不利となります。この場合、9:1とかで矛盾有利となっている状況だったならば、もはや明らかに間違った常識と感じる人たちの方が圧倒的に多数派なわけで、これはこの理論に関しては何らかの是正措置を取るべきなのだと思います。新たに学会などで研究テーマとして意見を闘わせて是正するべきか、あるいはもう古い理論だと認識させるべきか、話し合うべきことなのだと思います。逆に1:9とかで矛盾不利だという場合は世間はまだまだこの理論は正しいと感じる人が多い、ということになるのでそのまま常識として残すべき事柄になるのだと思います。

 ここまで読んで「じゃあ5:5とか半々の場合はどうなの?」と感じる方もいるかもしれません。あるいは6:4とか4:6とかでもいいかもしれません。その場合は、明らかに正しくもないし、間違ってもいないしどちらとも言えないので、完全な時代遅れの非常識とも言えないものだと思います。なので、そこまで目くじらたてて論争する必要はないと思います。しかし、もし何らかなの是正措置を取るならばその6:4や4:6などで出た割合の統計データを元に、意見聴取したサンプルの対象者の方たちから意見をもっと深く掘り下げて聴いてその意見を反映してみたりするなどがいいかもしれません。4:6などで矛盾不利などの場合はそこまで是正しなくていいと思いますが、6:4などで矛盾有利などの場合は矛盾だと感じる人の割合の方が多いわけなので、それはそれなりに矛盾を感じる人の割合に応じて何らかの是正措置を取るべきかもしれません。

 さらに疑問を感じる方は「こんなことはわざわざ統計データ取るまでもなく必要のない理論は自然淘汰されるのでは?」と思われたかもしれません。私は、統計学者でも研究者でもないので研究の世界のこともあまり知らないので何とも申し上げられませんが、さっき述べましたように「権威を持ってしまってる理論というのは中々淘汰されない」と思うのです。経済学でも古典派や新古典派などいろいろありますが、ひと昔前までは環境問題などは一切認識されてなかったので、「完全競争でみんながウィンウィンになってパレート最適になればみんな豊かになり幸せになれる」と考えられてましたが、もはや今の時代では環境問題なくして経済学を考えることはありえないと言われているそうです。だから、もはや昔の経済理論は時代遅れになりつつあるようです。でも、ケインズとかフリードマンとかとにかくものすごい有名な昔の経済学者の人たちが考えた理論は一度権威を持ってしまうと中々淘汰されにくいと思うのです。まあ、完全に淘汰するべきことではないけど少なくとも、今の時代は環境と経済は切っても切り離せない時代なので環境経済学とかそういったものが主流の時代へと移行すべき時代らしいです。そうじゃないと地球環境がこの先温暖化などでどんどん破壊されていって、私たちの未来や生存そのものが脅かされるからです。でも、その新たな時代にシフトすべきときに古い時代の価値観が権威を振るっていると中々新しい時代へと前進できないというのがあると思います。だからこそ、ここで矛盾指数という概念があれば何が正しいのか間違ってるのかがより明確になるような気がします。

 また、それでもさらに疑問を感じる方は「こんなことは学者が議論すればいいことで自然と個々の研究者同士が話し合えば自然と古い理論は淘汰されてくのでは?」と思われるかもしれません。民主主義の名のもとに色々な意見を闘わせて議論すれば自然とそうなるというのもうなずけます。でも果てしてそれで解決するのか?と自分は思いました。そもそも研究者同士が勝手に議論しただけでは民意が反映されてないですよね?例えば今現在行われているAIの研究も様々な議論が飛び交っていてもはや何が正しくて何が間違ってるのか?が我々庶民にはまったく見えてこないですよね?AIの時代になり得する人もでてくると思いますが、逆に仕事を奪われて困る人たちも増えるわけですよね?そういったメリットデメリットがちゃんと議論されてないと後々生活に困るのは我々庶民ですよね?それは最先端研究をしている方たちが勝手にAI論争を引き起こしてるからこういった問題が起きてるわけですよね。もちろんちゃんと民意を反映させて統計データを取ってる研究者の方もいるとは思いますが、個々の研究者が勝手にそれを行っているだけでは仕組みが曖昧だと思うのです。だから、ちゃんとそういったことを統計データを取って是正する仕組みが必要だと思ったので矛盾指数という概念を作りました。

 以上、矛盾指数についての説明でした。自分は統計学者でも研究者でもないので、こんな統計データ本当にとれるのかは分かりません( ̄▽ ̄;)(笑)そもそも、世界中からこんな統計データを取るなんて至難ですし。でも、統計というのはできるだけ幅広い地域や国で、できるだけ幅広い人種、性別、年齢層からのサンプルが多くないと意見が偏るので意味がなくなるそうです。でも、そうするには莫大な時間がかかる。だから、その辺りは統計学者の先生方に考えてもらっていただければと思ってます。自分の知識では、これ以上の意見を申し上げるとボロが出るのでここでやめたいと思います( ̄▽ ̄;)(笑)

 ご一読ありがとうございましたm(__)m

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English Translation

#11 Contradiction Index

 


What is the contradiction index?

 

The theme of this time is the concept of contradiction index. Let me start by saying that this kind of concept already exists and is being practiced among researchers, and there may be a mechanism for this. I'm not a researcher so I just don't know.

 

"In the first place, what is this contradiction index?" It may seem like this, but simply put, it is statistical data that serves as an index for classifying common sense and non-common sense in this world. I think I wrote it in the first article, but in the articles so far, I have written about the concepts of common sense and non-common sense very roughly. In the first place, what is common sense and what is not common sense is different for each person, right? That's why I think we can't explain the workings of the world only with the cyclical process of common sense and non-common sense unless we separate them. Without it, the mechanism of the circulation process itself would not work in the first place...

 

"So what is common sense and what is non-common sense?"
Thisn problem could be soloved by taking statistical data and classifying them. For example, let's say there is some theme in some field of psychology. It has already been proven in research, etc., and it is precisely because it has produced results that papers have been published at academic conferences that have been recognized by the public, right? That's why they are sold in bookstores and borrowed from libraries. However, even after the passage of time, is it really recognized by the public as correct? I feel that this is not very well recognized. In this era, this academic theory was common knowledge, but now it's outdated and can't be said to be common knowledge...( ̄▽ ̄;) There may be quite a few that have been researched and circulated as theories even without being evaluted by public. I'm not a researcher, so I don't know the details, but...

 

"If there are such cases, I don't think it can be said to be a theory of common sense anymore." It may be an academic theory that still wields authority in the world, but it is a field that is no longer very sympathetic to the public, and I think there are quite a few things that are seen with cold eyes. In that case, it is treated as common sense in the world, but it can be said that it is already becoming insane = becoming common sense that is non-common sense in reality.

 

However, once authority is exercised, I think that it is difficult for the public to come up with an opportunity to review the wrong theory. Because it already has authority, the general public cannot feel doubts or protest, saying, "This is an authoritative traditional theory, but isn't it actually wrong?" If so, this means that there is a high possibility that it will remain as common sense that is non-common sense in reality for many years after that. I think this should be avoided.

 

That's why I came up with the concept of a contradiction index. We need to gather statistical data as broadly as possible, and clearly clarify whether we think this theory is correct or wrong, or whether we think it is contradictory or not. So, for example, if the proportion of people who feel that 9:1 is inconsistent, it will be contradictory advantageous, and conversely, if the proportion of people who do not feel that it is contradictory in 1:9 is greater, it will be contradictory disadvantageous. In this case, if the situation is such that it is contradictory and advantageous with 9:1, the overwhelming majority of people feel that the common sense is clearly wrong. I think we should take action. I think we need to discuss whether we should make a new research theme at academic societies, etc., and rectify it, or whether we should recognize that it is already an old theory. On the other hand, if 1:9 is contradictory disadvantageous, there are still many people who feel that this theory is correct, so I think it should be left as common sense.

 

After reading this far, some of you may be wondering, "What if it's 5:5 or 50/50?" Or maybe 6:4 or 4:6. In that case, I don't think it's completely outdated and insane, as it's clearly neither right nor wrong. So I don't think it's necessary to argue so much. However, if we were to take some kind of corrective action, we would have to dig deeper and listen more deeply to the opinions of those who were interviewed based on the statistical data of the ratios such as 6:4 and 4:6. It may be good to try to reflect that opinion. I don't think you need to correct it that much if it's a contradiction disadvantage such as 4: 6, but if it's a contradiction advantage such as 6: 4, there are more people who feel it's a contradiction. Depending on the percentage of people who feel inconsistent, some corrective action may be taken.

 

For those who have further doubts, they may have thought, "Isn't it necessary to collect statistical data and natural selection of unnecessary theories will occur?" I'm neither a statistician nor a researcher, so I don't know much about the world of research, so I can't say anything about it, but as I said earlier, "theories that have become authoritative aren't easily weeded out.'' I think. In economics, there are various schools such as the classical school and the neoclassical school, but environmental problems were not recognized at all until a long time ago. However, it is said that it is impossible to think about economics without considering environmental problems in this day and age. So it seems that old economic theories are becoming obsolete. However, I think that once the theories of the famous economists of the past, such as Keynes and Friedman, become authoritative, they will be hard to weed out. Well, it's not something that should be completely weeded out, but at least in this era, the environment and the economy are inseparable, so it seems that environmental economics and so on should shift to the mainstream era. Otherwise, the global environment will be destroyed more and more due to global warming, and our future and existence itself will be threatened. However, when we should shift to the new era, if the values of the old era wield authority, we will not be able to move forward to the new era. That's why I feel that if there is a concept of contradiction index here, it will become clearer what is right and what is wrong.

 

Also, if you still have doubts, you may think that "this is something that scholars should discuss, and if individual researchers naturally discuss it with each other, the old theories will naturally be weeded out." It is understandable that this will naturally happen if various opinions are fought and debated in the name of democracy. But will that solve it? I thought. In the first place, the public opinion is not reflected if researchers just discuss it without permission, right? For example, there are various discussions about AI research currently being conducted, and we ordinary peple can't see what is right and what is wrong at all, right? I think that there will be some people who will be able to enter the age of AI, but on the contrary, there will be more people who have trouble losing their jobs, right? If such merits and demerits are not properly discussed, we ordinary people will have trouble living later, right? It's because those who are doing cutting-edge research are causing AI controversy without permission, so this kind of problem is happening. Of course, I think there are some researchers who collect statistical data that properly reflect the public opinion, but I think that the mechanism is ambiguous if individual researchers just do it on their own. That's why I thought it was necessary to have a mechanism to collect statistical data and correct such things, so I created the concept of a contradiction index.

 

This concludes the explanation of the contradiction index. I'm neither a statistician nor a researcher, so I don't know if I can really collect such statistical data ( ̄▽ ̄;) (laughs). However, statistics are meaningless unless there are a large number of samples from as many regions and countries as possible, and from as many races, genders, and age groups as possible, because opinions will be biased. But doing so would take an enormous amount of time. That's why I'd like statisticians to think about that. 


Thank you for reading m(__)m

非常識効用=おっぱっぴー効用

非常識効用とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。朝から記事を二連投してしてしまってます(;^_^Am(__)m

 今回のテーマは非常識効用です。これは、数学や数式さえ無視したら、めちゃくちゃ簡単な概念です。非常識幸福度増大効果について前の記事で説明させていただきましたが、それを経済学の効用という概念から引っ張ってきて、その幸福度の増える割合や度合いを数値化して指標で示したものです。通常の経済学の効用は消費者の商品購入時の満足度のことを表すらしいですが、何らかのおっぱっぴー的な現象、つまり肯定的非常識などの出来事によって世の中の幸福度が増す度合いのことを言います。そして、実際の経済学にも効用関数というのがあり、効用を関数で数値化できるらしいので、非常識効用関数などの概念があってもいいかと思います。数学的な専門知識がないので数式の証明は僕にはできませんので、説明は一切割愛致します(笑)( ̄▽ ̄;)(;^_^A

 ちなみに経済学の一般的な効用についてはググってみたらあらゆるサイトがあってどれがいいのか分かりませんでした。一応Wikiのサイトだけ以下に掲載致します。

以上、ご一読ありがとうございました。

ja.wikipedia.org

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English Translation

#10 No common sense utility

 

What is no common sense utility?

 

​​ This time the theme is no common sense utility. This is an insanely easy concept once you ignore the math and formulas. I explained the no common sense happiness levels increased effect in the previous article, but I pulled it from the concept of utility in economics and quantified the rate and degree of increase in happiness and showed it as an index. In ordinary economics, utility seems to represent the degree of consumer satisfaction when purchasing a product, but it refers to the degree to which the level of happiness in the world increases due to some kind of non-common sense phenomenon, that is, an event such as positive no common sense. In addition, there is a utility function in actual economics, and it seems that utility can be quantified using a function, so I think it would be nice to have a concept such as an no common sense utility function. I don't have any mathematical expertise, so I can't prove the formula, so I won't explain it at all (laughs)( ̄▽ ̄;)(;^_^A​​


Thank you for reading the above.

非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適

非常識幸福度最適とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 週末だというのに、またもや早くから目が覚めてしまいやることないから朝っぱっから記事を書いてます。

 さて、今回のテーマはずばり・・・非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適についてです。また訳わからない造語が出てきたよ~と思った方もいっしゃるかと思いますが、大して難しくはありません。経済学用語にパレート最適ってありますよね?これはググってみたら以下のようなサイトがありました。

kisoken.org

www.nomura.co.jp

 この説明だけ見ても何のこっちゃって感じですよね?かくいう経済学部出てる自分も意味が分かってません(笑)難しい数学的な部分とか数式みたいなのは難解チックだったので、何となくで理解してテストのためだけに丸暗記してました。まあ、でも学者さんではないのだから数式の意味なんて基本だけ分かってればいいのだと思います。大切なのは基本概念を理解することですから。数式はただそれを証明しているものにしかすぎないわけですので・・・( ̄▽ ̄;)とまあ、半分は言い訳なのですけど(笑)

 でも、まあ簡単に言えば市場においてすべての経済主体?(詳しくは分からないので意味はググってください)がみんな最大限に経済的利益を享受してみんなお得の状態なのがパレート最適なのだと理解してます。そしてそれを別名、パレート効率性ともいうらしいです。そして、それがまだまだ改善の余地がある=非効率である、という意味でそのような状態をパレート非効率性と呼ぶらしく。そして、その非効率性を実際に改善することをパレート改善と言うらしいです。

 まあ、パレート最適については突っ込んだ専門的な意味は分からないので、このあたりにしますが、今回のテーマである非常識幸福度最適は、簡単に言えばこれの幸福度バージョンです。通常の経済学では他の経済主体の経済状態を悪化させなければそれ以上他の経済主体の経済状態をよくすることができない最高にベストの状態のことをパレート最適と言いますが、世の中のおっぱっぴーにより世の中の幸福度がベストの状態になることを非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適と言います。

 今までの記事でご説明した通り、世の中を幸福にする非常識=肯定的非常識が起きると世の中に感動が巻き起こり、みんなの幸福度が増すと私は考えています。今までの記事で述べさせていただきましたように、世の中の常識と非常識の循環プロセスがうまく回ってて完璧な状態になることを真の非常識均衡と呼んでました。しかし、実際には世の中は不完全でプロセスは完全にうまく遂行しきれてないとも述べました。だから、真の非常識均衡になることはまれ、というかほぼないと私は思ってます。だから、この世の中は常に仮の非常識均衡の状態になっているわけですね。どういうことかというと、今までの説明で申し上げたようにシーソーのバランスで言えば、私たちの住む社会は否定的非常識と肯定的非常識のどちらかに傾いている可能性が非常に高い、ということかと思います。例えば、通常はシーソーのバランスが保たれている状態(真の非常識均衡)の場合は否定的非常識と肯定的非常識の割合は5:5で均衡が保たれるわけですね。(シーソーの中心の常識と狭義のおっぱっぴーの領域についてはこの場合度外視することとする。)否定的非常識優位になり、否定的非常識の方により傾いていて中心よりも若干そちらよりになっているとすると、例えば否定的非常識と肯定的非常識の割合が6:4とかになるわけです。そして逆に肯定的非常識優位になると4:6などになるわけです。もちろん真の非常識均衡が万が一ですが、もし仮に実現されたとしたら5:5の均衡状態となるのですが、真の非常識均衡=世の中が平和な状態と定義されるのでつまり

真の非常識均衡の状態=非常識幸福度最適の状態

ともいえると思います。

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真の非常識均衡の状態では、非常識幸福度増大効果最大化が達成されるので

自動的に非常識幸福度最適となる。

 そして、このシーソーのバランスがどちらかに傾いているにせよ、その時に世の中の幸福度ができるだけベストになることがこの世界の平和にとって望ましいと僕は考えました。つまり、これが最大化されてそれ以上改善できる余地のない状態を非常識幸福度最適と言います。

 パレート最適のときと同じで、別名、非常識幸福度効率性と呼んでもいいかと思います。それが改善の余地があり非効率の場合は、非常識幸福度非効率性といい、その非効率性を改善することを非常識幸福度改善と呼んでいいかと思います。

 ちなみに前回の非常識幸福度増大効果の説明をしましたが、これは幸福度が増大する効果のことを示す指標のことで、それが最大化されると非常識幸福度増大効果最大化となります。つまり、非常識幸福度増大効果最大化が実現されると非常識幸福度最適の状態となるので=の意味でとらえていいと思います。

非常識幸福度増大効果最大化が実現されている状態=非常識幸福度最適の状態

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仮の非常識均衡では自動的に非常識幸福度最適にはならないので

非常識幸福度増大効果最大化をはかる。

 以上、簡単にご説明致しましたがあくまで自分の考えた仮説の概念ですので本当に実現可能かはよく分かりませんし、検証が必要だと思います。しかも、どうやって検証するんや?というお話だと思います。難解な数式の分かる数学者や経済学者の先生方なら解明できるかもしれません( ̄▽ ̄;)

 今回もご一読ありがとうございましたm(__)m 


 

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English Translation

#9 No common sense happiness optimal

 

 

By the way, the theme of this time is about the best "No common sense happiness optimal."
I'm sure some of you may have thought "What is that?", but it's not that difficult. There is a Pareto optimal in economics.

 

Even I, who graduated from the Faculty of Economics, didn't understand the meaning (laughs). Difficult mathematical parts and formulas were difficult to understand, so I somehow understood them and memorized them just for the test. Well, but I'm not a scientist, so I think it's fine if I just understand the basics of the meaning of mathematical formulas. It's important to understand the basic concepts. The formula is just something that proves it... ( ̄▽ ̄;) Well, it's half an excuse (laughs)

 

But, to put it simply, all economic agents in the market? (I don't know the details, so please google the meaning), but I understand that Pareto optimal holds when everyone enjoys the maximum economic benefit and everyone is in a good state. This is also known as Pareto efficiency. And it seems that such a state is called Pareto inefficiency in the sense that there is still room for improvement = inefficiency. And actually improving the inefficiency is called Pareto improvement.

 

​ Well, I don't know the technical meaning of the Pareto optimal, so I'll leave it here, but the theme of this time, the no common sense happiness optimal, is simply the happiness version of this. In ordinary economics, the Pareto optimal is the highest possible state in which the economic conditions of other economic agents cannot be improved unless the economic conditions of other economic agents deteriorate. It is said that the happiness level of the world is at its best due to the no common sense happiness optimal

 

​​​As I have explained in previous articles, I believe that positive insanity that makes the world happy = positive no common sense will create excitement in the world and increase the happiness of everyone. As I have mentioned in previous articles, I called the true no common sense equilibrium when the cyclical process of common sense and no common sense in the world runs smoothly and reaches a perfect state. However, I also said that in reality the world is imperfect and the process has not been carried out perfectly. Therefore, I believe that a true no common sense equilibrium is rare, or even rare. That's why the world is always in a state of temporary no common sense equilibrium. What I mean is, as I explained so far, if you look at the seesaw balance, it is very likely that the society we live in leans toward either negative or positive no common sense, I think. For example, when the seesaw is normally in balance (true no common sense equilibrium), the ratio of negative no common sense to positive no common sense is 5:5. (In this case, the common sense of the center of the seesaw and the area of ​​common sense that is non-common sense in reality will be disregarded.)
True no common sense equilibrium is just in case, but if it were to be realized, it would be a 5:5 equilibrium, but a true no common sense equilibrium is defined as a state of peace in the world.

State of true no common sense equilibrium = state of no common sense happiness optimal

 

It's the same as when the Pareto optimal is achieved, and I think it's okay to call it another name, no common sense happiness efficiency. If there is room for improvement and it is inefficient, it is called no common sense happiness inefficiency, and improving that inefficiency can be called no common sense happiness improvement.

 

​By the way, I explained the no common sense happiness levels increased effect last time, but this is an index that shows the effect of increasing happiness. In other words, if the maximization of the no common sense happiness levels increased effect is realized, the no common sense happiness will be in an optimal state, so I think you can take it in the sense of =.

 

State in which the no common sense happiness levels increased effect is maximized = state of no common sense happiness optimal

 

 

The above is a brief explanation, but it's just a hypothetical concept that I came up with, so I'm not sure if it's really feasible, and I think it's necessary to verify it. And how do you verify? I think that's the story. Mathematicians and economists who understand difficult formulas may be able to elucidate it ( ̄▽ ̄;)

 

 Thank you for reading this time m(__)m