以下のタイトルのブログ記事に対する自分の見解を述べたいと思います。
ツイッターの知り合いで、自分の理論に興味もってくれた方が独自の分析をしてくれて、自分でも気づかなかった新たな視点を見つけました!
マズローへの挑戦状③ 非常識超越理論から考える 第二回|mark|note
このブログ記事によれば、mark氏いわく「オピニオンリーダーによって世論は形成される」とのことです。もしそうだとするとそのオピニオンリーダーが間違った意見を常識として世論に無理やり押し付けようとすると、その場合は不幸にも多数派の意見もその間違った常識に追随せざるを得なくなり、結果として世の中の常識の大半が間違ったものへと変わっていってしまう。
そして、彼は例として戦争など非常時を挙げている。戦争など非常事態になると国を挙げて戦争するのが正しいとみなされるようになり、平和な時は戦争行為は狭義のおっぱっぴーなどに属するが、戦争時はそれが常識とみなされてしまうということだ。つまり、正しかった多数派が、間違ったオピニオンリーダーにより意見を抑圧され、多数派が間違った常識を押し付けられてそれが当たり前の社会となるからである。つまり、このブログ記事を読めば分かるのだが、常識と狭義のおっぱっぴーの+-要因が反転して立場が逆転してしまうということである。また、積極的に戦争をしろというプロパガンダ的なメッセージを放つオピニオンリーダーの肯定的非常識に属する何らかの作戦だったり戦略あるいは宣伝といった類のものは、もはやマイナス要因として働く。これも、また肯定的非常識と否定的非常識の立場が逆転する。
※自分の解釈があっているかどうかは定かではないので、もしご興味あれば彼のブログ記事を読んでみてくださいm(__)m
でも、自分もこの点についてはうすうす気づいていたというか・・・
ここまで詳細には考察しませんでしたが、自分もこのモデル図には決定的な欠陥があると感じていました。なぜなら、多数派が間違った常識を常識と思い込んでしまった場合はいくらモデル図が成立していたとしても、それは世の中的には間違っていることとなってしまうからである。
それを、mark氏は見事に見抜きそれをさらに詳細に図として表示してしまったので、「なるほど・・・そういうことだったのか。。」と目から鱗が落ちました。
これらについては解決方法は全くないわけではないが、以下のようなものが挙げられると思います。
<考えられる解決策>
1.常識と非常識が反転して立場が逆転してしまうような非常事態ができるだけ起きないような世の中にする。
つまり、できるだけ平和の時代を保とうとする考え。
しかし、これにはかなり無理があるように思える。
この常識と非常識の循環プロセスだけではどうやって戦争を抑止するかその問いに完全には答えてないように思えるからである。
さらに言えば、自分の「非常識超越平和理論」のブログ記事にもすでに書いてますが、「戦争の被害や亡くなった人の命」などは数字には換算できないため、このモデル図の概念には当てはまらないためこの理論では概念上扱えないという考えもあります。もし、そうならそもそも平和時や戦争時などそういったことも初めから想定してないことになります。
ですが、これから先さらに分析すれば何らかの解決方法が見つかるかもしれません・・・
2.戦争などの非常時の時代へと突入した場合は、markさんの考えたモデル図を一時的に使用する
これは、あくまで仮説であるが、非常事態になったらもはや従来の常識と非常識の循環プロセスは使えないということになるため、仮にmarkさんバージョンのモデル図を使用するという案である。
しかし、これらについてもまだ仮説段階でどのようになるのかイメージがまったくつかめないというか皆目見当もつきません・・・(;^_^A( ̄▽ ̄;)(笑)
上記のような二つの方法があるが、自分としては
①1をできるだけ継続する
②普段からできるだけ間違ったオピニオンリーダーをこの世に出現させないようにする 解決例)国民がみな政治に関心を持ち投票にいくなど・・・
③例え、間違ったオピニオンリーダーが出現してしまったとしても国民の多数派が間違った世論に誘導されないように、優秀な人たちが政治活動および平和活動をする
このような考え方でかなりの部分が解決していくと思われる。
しかし、先述のように①だけはかなり解決不可能な面はある。
その場合はやはり、どうしても非常事態に突入してしまったということで、markさんの考えたモデル図を使用することが一番いいのだと思います。
しかし、モデル図といっても実際に表に注意書きをするか、プラスとマイナスの要因を追記するなどの対処策しか思いつきません。
あるいは最終手段として、もし非常事態になってもそれらの時代を正確に反映した新たなモデル図を考案してさらに理論を統合して発展させていくという考えもありますが、かなり仮説的というか架空的な概念になりそうです。。
ということで、最終的な結論としてはあまり具体的でなく説得力がないです。
しかし、このような+-の要因が行ったりきたりするのはモデル図におていは避けようがない事実という気がします。。あって当然というか・・・そもそも、哲学というものには限界があります。社会システムや政治哲学理論や平和理論を仮にいくら完璧に構築できたとしても、社会がその通りになることはほとんどない。なぜなら社会は人間の意思で成り立つものであり、不完全だからこそ人間だからです。ルソーの社会契約論では解決しなかった理由がそこにあるのでしょう。
だから、mark氏がいうようにモデル図が行ったり来たりするという可能性もありますけど、それを許容してシステム上推し進めていくという方法しかいまのところはないと思います。
ルソーやモンテスキューですら民主主義の問題は解決できなかったので、恐らくこの非常識超越平和理論のモデルもそれ以上のものでも何でもないので万事うまくいくということはありえないです。
最終的には人間社会の問題になるのであり、システムだけで解決することはないかと思います。
やはりシステムだけでは限界があり、最終的には一人一人の行動と意識に依存せざるを得ないと思います。だから、結局人なんですよね。。理論とかシステムという概念だけではできることにおのずと限界があります。できるだけ世の中がおかしくならないようにするためのツールでしかないと思います。
ですので、これ以上は今の段階では分析しようがないので、考察はここまでとしてこれにてブログ記事を締めくくりたいと思いますm(__)m