非常識超越平和思想のすべて~遥かなるおっぱっぴーの世界へといざなう~

はじめまして。おっぱっぴー芸術思想家KeithUと申します。自分なりに考えた平和思想を綴りたいと思います。10年間、いろいろ宗教や思想や哲学、政治などを学んだ結果、それをベースに自分で世の中がどうすればよくなるのか?平和になるのか?という観点でオリジナルの思想を考えてみました。おっぱっぴー平和思想=非常識超越平和思想or非常識超越平和理論といいます。ツイッターでは天才とある程度評価されていて、令和哲学者ノ・ジェス氏の関係者の方にSAMURAI1000に推薦された経験あります。

仮の非常識均衡

仮の非常識均衡とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。朝早いのに目が覚めてしまい、やることないので記事書いてます(笑)( ̄▽ ̄;)

 今回は仮の非常識均衡という概念について説明させていただければと思います。前の記事で、非常識均衡についてや常識と非常識の循環プロセスについては書かせていただきましたが、その中で、「2.プロセスそのものには全く問題はないが、社会そのものが矛盾しているためいくら頑張ってもプロセスを遂行しきれない。」

というものがありました。これは、僕自身も混乱するくらいに非常に複雑な概念なので前の記事では全部説明しきれなかったものです。厳密にはどういうことかというと、常識と非常識は前の記事の通り上手く以下のようなサイクルで循環しながら時代とともに一見進歩しているように見えるけど、これは見せかけだということかと思います。

 分かりやすくするため、以下に前の記事の内容をまた抜粋致します。

<常識と非常識の循環プロセス>

否定的非常識→肯定的非常識→新たな常識→狭義のおっぱっぴー→否定的非常識

まず、時代の先を行くイノベーションは最初は否定的非常識として分類されまったく評価されないが、次第に「これは斬新なアイディアだ」と認められれば肯定的非常識に分類される。そして、例えば、それがさらに市場で優位に立ってヒット商品などになればそれが新たな時代のスタンダート、つまり常識となれる。しかし、それも時代とともに古くなればまたそれは時代遅れと見なされ、狭義のおっぱっぴーに降格することになる。そして、それがやがて否定的非常識にまた戻されることになる。(前の記事から抜粋)

 このように常識と非常識は一見正しく循環して時代とともに進歩しているように見えますが、実は社会そのものが矛盾しているためうまく循環しきれてないということです。どういうことかというとそれは①否定的非常識の側面②肯定的非常識の側面③常識と狭義のおっぱっぴーの側面と、3つに分けて考える必要があります。以下にまとめて記載致します。

①否定的非常識の側面

これは、何度もニーチェ先生の事例でご説明した通り、いくらすばらしい発見やイノベーションであっても世間に評価されないで埋もれたままになってしまうということです。本来なら肯定的非常識ないし新たな常識として評価されるべきものが、否定的非常識に分類され続けるということです。そういった埋もれた発見がたくさん積もりに積もっていくと否定的非常識の総量があまりにも大きくなってしまい、非常識均衡のシーソーのバランスが崩れ、否定的非常識の方に大きく傾くということです。否定的非常識優位の状態になると言えます。これは社会にとってはあまりよくないことです。私たちの社会をより明るい未来にするためには避けなければならないことです。他にもウォルト・ディズニーさんなどもその事例に含まれると思います。ニーチェ先生と違って生きてる間には評価されたのかと思いますが、最初は「こんなねずみ(後にミッキーとなる)が人気がでるわけがない」とか「エンターテイメントなんて世の中に悪影響を及ぼす不謹慎なものだ」と周りや世間から散々叩かれて反対されたといいます。これも本来なら評価されるべきものが、理解されないがゆえに否定的非常識に分類されてしまった事例だと思います。

②肯定的非常識の側面

これは、肯定的非常識優位になるのは社会にとってはいいこと、と前の記事で書いてしまいましたが、それは非常識均衡が最適な解ではないと仮定した場合のことで、もし非常識均衡が世の中の平和にとっての答えならば、肯定的非常識の方に大きく傾き過ぎるのもよくないということです。どういうことかというと、あまりにもイノベーションが過度に起きすぎて新たな別の負の側面が出てくるということです。例えば、原発なんかがいい例で、原発のおかげで私たちは電気エネルギーを使用できて豊かで便利な社会の中で生活ができますが、3.11のような悲劇が起きるという負の側面もあるわけですよね?また、それ以外にもあらゆる便利な発明は電気エネルギーを消費して地球温暖化を招くことにも繋がります。その他にもAIの開発などがあります。これはAIによって世の中が便利になり仕事のコストパフォーマンスが上がり、助かる人もたくさんいますが、逆に職をロボットに奪われて困る人たちも出てくる可能性があるということです。だからあまりにも過度にイノベーションが起きすぎるのはどうなのか?ということです。そして、これも①と同様、肯定的非常識の総量があまりにも大きすぎるとシーソーが大きく左右のどちらかに傾いてしまうということです。

常識と狭義のおっぱっぴーの側面

常識の場合も、常に常識は新しく生まれ変わるので古いものと新しいものが常に入れ替わるので、時代が変わってもその総量は変わらない、とも言えます。しかし、時代が変わっても相変わらず古い習慣やルールなど時代にそぐわない矛盾した間違った常識がはびこるとどんどん常識の総量が増えていきます。本来なら、古くなった常識は狭義のおっぱっぴーへと降格して、そしてやがて時代遅れだと世間に判断された場合は否定的非常識へと戻されるわけです。しかし、それがうまく循環しないといつまでも狭義のおっぱっぴーの総量が減らないので常識の総量がどんどん増えていってしまうということです。

1.肯定的非常識は世間に認められると新たな常識となる。しかし、その常識はもう時代にそぐわないと判断された場合は狭義のおっぱっぴーへと降格

2.逆に狭義のおっぱっぴーは、時代とともに修正されアップデートされると再び常識に戻される。あるいはもう必要ないと判断されれば否定的非常識に分類される。

このように常識と狭義のおっぱっぴーは行ったり来たりうまく循環するはずなのです。しかし、上記のように時代が変わっても間違った常識がそのままはびこると狭義のおっぱっぴーの総量がどんどんたまっていき常識の総量もどんどん増えていってしまうということです。これはシーソーのバランスとは関係ないですが、シーソーを支える支柱?の部分の体積があまりにも大きくなりすぎて幅が広がってしまう状態だと言えます。そうなると、シーソーはもはや左右にまったく動かず機能しなくなりますよね?つまり身動きがとれなくなり社会が回らなくなる状態と言えます。よく常識でがんじがらめになるといいますが、まさにその状態です。頭が固くなりすぎて凝り固まるということです。

 ご察しの方ならもうお分かりかと思いますが、つまり常識と非常識の循環プロセスは一見正しいように見えてもうまく仕組みが回ってないってことです。なので、一見世の中は非常識均衡になるようで中々なれないということかと思います。シーソーで言えばどちらかに偏っているか、あるいは支柱の幅が広がり過ぎて動かなくなっているか、そのどれかになっているのです。なのでこれを一見、非常識均衡になっているようでそれは見せかけにしか過ぎない、という意味で仮の非常識均衡と呼んでいます。逆に、もしこの常識と非常識の循環プロセスがうまく機能して非常識均衡が成立した場合はそれは真の非常識均衡とも言えるかと思います。

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何らかの社会的制約や矛盾および行動力の不足により常識と非常識の循環プロセスは

遂行しきれなくなり、シーソーは左右いずれかに傾く。

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狭義のおっぱっぴーの増大化により常識が肥大化する。

常識でかんじがらめになっている社会。

ー否定的非常識の領域だけどんどんたまっていく?!ー

自分でも今まで気にしなかったのですが、記事を書いてるうちに矛盾に気づきました(;^_^A( ̄▽ ̄;)それは、常識と非常識の循環プロセスの全領域の中で、否定的非常識の領域だけどんどんたまっていくようなイメージになっているということです。これは、想像すれば何となくで分かります。肯定的非常識はどんどん新たなイノベーションが起きても新しい常識の領域へと変換されていきます。常識の領域も時代とともに古くなれば狭義のおっぱっぴーの領域へと降格して、さらにそれがもはや非常識だと認識されるようになれば否定的非常識の領域へとさらに降格します。しかし、否定的非常識の領域だけ別なのです。どういうことかといいますと、先ほどのニーチェ先生ウォルト・ディズニーさんの例のように、評価されないままのイノベーションで否定的非常識として世間に認識されているものというのは、時代とともにどんどん新たに生まれてくるものです。それとは逆に狭義のおっぱっぴーから降格してきた否定的非常識もどんどん同じ領域に格納されていくことになります。これだと否定的非常識の領域だけ膨れ上がって容量オーバーになります。ですが、大丈夫なんです。否定的非常識というのは世の中を不幸にする非常識という意味なので、世の中にはびこる非常識やマナー違反、ルール違反、暴力、虐待、誹謗中傷、犯罪、その他様々なあらゆる社会問題などがその領域に含まれています。そういったマイナス要因のものは、時代とともに徐々に改善され問題は解決していく、と考えられるからです。なので結局、否定的非常識の領域もプラスマイナスゼロで劇的に増えるわけではないのです。まあ、これはあくまで僕の考えてる仮説なので正しいかどうかは検証してみないと分からないし、一体どうやってこんなこと検証するんや?!みたいな感じのものなので、あまり気にせず「こういう考え方もあるんだな」くらいに気に留めておいていただけたら幸いですm(__)m

 

~おっぱっぴー用語禄~

ぶっとびおっぱっぴー

これは単純にそのまんまの意味で、おっぱっぴーをもはや超越してぶっ飛び過ぎてるくらい意味不明という意味です。時代の先を行き過ぎた発想をするイノベーターは、もはや意味不明の領域を超えて「ぶっとびおっぱっぴー」と言えるのかと思います。ぶっとびおっぱっぴー過ぎると否定的非常識として評価されてしまう危険性があります。この記事の例で言えば、ニーチェ先生ウォルト・ディズニーさんがぶっとびおっぱっぴーに当てはまります。

 

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English Translation

#7 hypothetical no common sense equilibrium

 

What is a hypothetical no common sense equilibrium?

 

 

"This time, I would like to explain the concept of "hypothetical no common sense equilibrium." In the previous article, I wrote about no common sense equilibrium and the cyclical process of common sense and no common sense. "No matter how hard we try, we can't complete the process."

 


This is a very complex concept that confuses me myself, so I couldn't fully explain it in the previous article. Strictly speaking, common sense and no common sense seem to be progressing with the times while circulating in the following cycle.

 


For the sake of clarity, the contents of the previous article are excerpted below.

 


<Cyclical process of common sense and non-common sense>

 


Negative no common sense → Positive no common sense → New common sense → Common sense that is non-common sense in reality → Negative no common sense


First, innovation that is ahead of the times is initially classified as negative no common sense and is not evaluated at all, but if it is gradually recognized as "this is a novel idea", it is classified as positive no common sense. And, for example, if it becomes even more dominant in the market and becomes a hit product, it will become the standard of the new era, in other words, common sense. However, if it becomes old with the times, it will be considered outdated and will be demoted to common sense that is non-common sense in reality. And it will eventually return to negative no common sense. (Excerpt from previous article)

 


In this way, common sense and non-common sense seem to circulate correctly and progress with the times, but in fact, society itself is contradictory, so it is not circulating well. In other words, it is necessary to divide it into three parts: (1) The side of negative no common sense, (2) The side of positive no common sense, and (3) the side of common sense and common sense that is non-common sense in reality. Below is a summary.

 


① Negative no common sense side

 


As I explained many times in the case of Professor Nietzsche, this means that no matter how wonderful discoveries or innovations are, they remain buried without being evaluated by the public. What should normally be evaluated as positive no common sense or new common sense continues to be classified as negative no common sense. When a lot of such buried discoveries accumulate, the total amount of negative no common sense becomes too large, and the balance of the seesaw of the no common sense equilibrium collapses, and it leans greatly toward negative no common sense.