非常識超越平和思想のすべて~遥かなるおっぱっぴーの世界へといざなう~

はじめまして。おっぱっぴー芸術思想家KeithUと申します。自分なりに考えた平和思想を綴りたいと思います。10年間、いろいろ宗教や思想や哲学、政治などを学んだ結果、それをベースに自分で世の中がどうすればよくなるのか?平和になるのか?という観点でオリジナルの思想を考えてみました。おっぱっぴー平和思想=非常識超越平和思想or非常識超越平和理論といいます。ツイッターでは天才とある程度評価されていて、令和哲学者ノ・ジェス氏の関係者の方にSAMURAI1000に推薦された経験あります。

非常識効用=おっぱっぴー効用

非常識効用とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。朝から記事を二連投してしてしまってます(;^_^Am(__)m

 今回のテーマは非常識効用です。これは、数学や数式さえ無視したら、めちゃくちゃ簡単な概念です。非常識幸福度増大効果について前の記事で説明させていただきましたが、それを経済学の効用という概念から引っ張ってきて、その幸福度の増える割合や度合いを数値化して指標で示したものです。通常の経済学の効用は消費者の商品購入時の満足度のことを表すらしいですが、何らかのおっぱっぴー的な現象、つまり肯定的非常識などの出来事によって世の中の幸福度が増す度合いのことを言います。そして、実際の経済学にも効用関数というのがあり、効用を関数で数値化できるらしいので、非常識効用関数などの概念があってもいいかと思います。数学的な専門知識がないので数式の証明は僕にはできませんので、説明は一切割愛致します(笑)( ̄▽ ̄;)(;^_^A

 ちなみに経済学の一般的な効用についてはググってみたらあらゆるサイトがあってどれがいいのか分かりませんでした。一応Wikiのサイトだけ以下に掲載致します。

以上、ご一読ありがとうございました。

ja.wikipedia.org

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English Translation

#10 No common sense utility

 

What is no common sense utility?

 

​​ This time the theme is no common sense utility. This is an insanely easy concept once you ignore the math and formulas. I explained the no common sense happiness levels increased effect in the previous article, but I pulled it from the concept of utility in economics and quantified the rate and degree of increase in happiness and showed it as an index. In ordinary economics, utility seems to represent the degree of consumer satisfaction when purchasing a product, but it refers to the degree to which the level of happiness in the world increases due to some kind of non-common sense phenomenon, that is, an event such as positive no common sense. In addition, there is a utility function in actual economics, and it seems that utility can be quantified using a function, so I think it would be nice to have a concept such as an no common sense utility function. I don't have any mathematical expertise, so I can't prove the formula, so I won't explain it at all (laughs)( ̄▽ ̄;)(;^_^A​​


Thank you for reading the above.

非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適

非常識幸福度最適とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 週末だというのに、またもや早くから目が覚めてしまいやることないから朝っぱっから記事を書いてます。

 さて、今回のテーマはずばり・・・非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適についてです。また訳わからない造語が出てきたよ~と思った方もいっしゃるかと思いますが、大して難しくはありません。経済学用語にパレート最適ってありますよね?これはググってみたら以下のようなサイトがありました。

kisoken.org

www.nomura.co.jp

 この説明だけ見ても何のこっちゃって感じですよね?かくいう経済学部出てる自分も意味が分かってません(笑)難しい数学的な部分とか数式みたいなのは難解チックだったので、何となくで理解してテストのためだけに丸暗記してました。まあ、でも学者さんではないのだから数式の意味なんて基本だけ分かってればいいのだと思います。大切なのは基本概念を理解することですから。数式はただそれを証明しているものにしかすぎないわけですので・・・( ̄▽ ̄;)とまあ、半分は言い訳なのですけど(笑)

 でも、まあ簡単に言えば市場においてすべての経済主体?(詳しくは分からないので意味はググってください)がみんな最大限に経済的利益を享受してみんなお得の状態なのがパレート最適なのだと理解してます。そしてそれを別名、パレート効率性ともいうらしいです。そして、それがまだまだ改善の余地がある=非効率である、という意味でそのような状態をパレート非効率性と呼ぶらしく。そして、その非効率性を実際に改善することをパレート改善と言うらしいです。

 まあ、パレート最適については突っ込んだ専門的な意味は分からないので、このあたりにしますが、今回のテーマである非常識幸福度最適は、簡単に言えばこれの幸福度バージョンです。通常の経済学では他の経済主体の経済状態を悪化させなければそれ以上他の経済主体の経済状態をよくすることができない最高にベストの状態のことをパレート最適と言いますが、世の中のおっぱっぴーにより世の中の幸福度がベストの状態になることを非常識幸福度最適=おっぱっぴー最適と言います。

 今までの記事でご説明した通り、世の中を幸福にする非常識=肯定的非常識が起きると世の中に感動が巻き起こり、みんなの幸福度が増すと私は考えています。今までの記事で述べさせていただきましたように、世の中の常識と非常識の循環プロセスがうまく回ってて完璧な状態になることを真の非常識均衡と呼んでました。しかし、実際には世の中は不完全でプロセスは完全にうまく遂行しきれてないとも述べました。だから、真の非常識均衡になることはまれ、というかほぼないと私は思ってます。だから、この世の中は常に仮の非常識均衡の状態になっているわけですね。どういうことかというと、今までの説明で申し上げたようにシーソーのバランスで言えば、私たちの住む社会は否定的非常識と肯定的非常識のどちらかに傾いている可能性が非常に高い、ということかと思います。例えば、通常はシーソーのバランスが保たれている状態(真の非常識均衡)の場合は否定的非常識と肯定的非常識の割合は5:5で均衡が保たれるわけですね。(シーソーの中心の常識と狭義のおっぱっぴーの領域についてはこの場合度外視することとする。)否定的非常識優位になり、否定的非常識の方により傾いていて中心よりも若干そちらよりになっているとすると、例えば否定的非常識と肯定的非常識の割合が6:4とかになるわけです。そして逆に肯定的非常識優位になると4:6などになるわけです。もちろん真の非常識均衡が万が一ですが、もし仮に実現されたとしたら5:5の均衡状態となるのですが、真の非常識均衡=世の中が平和な状態と定義されるのでつまり

真の非常識均衡の状態=非常識幸福度最適の状態

ともいえると思います。

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真の非常識均衡の状態では、非常識幸福度増大効果最大化が達成されるので

自動的に非常識幸福度最適となる。

 そして、このシーソーのバランスがどちらかに傾いているにせよ、その時に世の中の幸福度ができるだけベストになることがこの世界の平和にとって望ましいと僕は考えました。つまり、これが最大化されてそれ以上改善できる余地のない状態を非常識幸福度最適と言います。

 パレート最適のときと同じで、別名、非常識幸福度効率性と呼んでもいいかと思います。それが改善の余地があり非効率の場合は、非常識幸福度非効率性といい、その非効率性を改善することを非常識幸福度改善と呼んでいいかと思います。

 ちなみに前回の非常識幸福度増大効果の説明をしましたが、これは幸福度が増大する効果のことを示す指標のことで、それが最大化されると非常識幸福度増大効果最大化となります。つまり、非常識幸福度増大効果最大化が実現されると非常識幸福度最適の状態となるので=の意味でとらえていいと思います。

非常識幸福度増大効果最大化が実現されている状態=非常識幸福度最適の状態

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仮の非常識均衡では自動的に非常識幸福度最適にはならないので

非常識幸福度増大効果最大化をはかる。

 以上、簡単にご説明致しましたがあくまで自分の考えた仮説の概念ですので本当に実現可能かはよく分かりませんし、検証が必要だと思います。しかも、どうやって検証するんや?というお話だと思います。難解な数式の分かる数学者や経済学者の先生方なら解明できるかもしれません( ̄▽ ̄;)

 今回もご一読ありがとうございましたm(__)m 


 

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English Translation

#9 No common sense happiness optimal

 

 

By the way, the theme of this time is about the best "No common sense happiness optimal."
I'm sure some of you may have thought "What is that?", but it's not that difficult. There is a Pareto optimal in economics.

 

Even I, who graduated from the Faculty of Economics, didn't understand the meaning (laughs). Difficult mathematical parts and formulas were difficult to understand, so I somehow understood them and memorized them just for the test. Well, but I'm not a scientist, so I think it's fine if I just understand the basics of the meaning of mathematical formulas. It's important to understand the basic concepts. The formula is just something that proves it... ( ̄▽ ̄;) Well, it's half an excuse (laughs)

 

But, to put it simply, all economic agents in the market? (I don't know the details, so please google the meaning), but I understand that Pareto optimal holds when everyone enjoys the maximum economic benefit and everyone is in a good state. This is also known as Pareto efficiency. And it seems that such a state is called Pareto inefficiency in the sense that there is still room for improvement = inefficiency. And actually improving the inefficiency is called Pareto improvement.

 

​ Well, I don't know the technical meaning of the Pareto optimal, so I'll leave it here, but the theme of this time, the no common sense happiness optimal, is simply the happiness version of this. In ordinary economics, the Pareto optimal is the highest possible state in which the economic conditions of other economic agents cannot be improved unless the economic conditions of other economic agents deteriorate. It is said that the happiness level of the world is at its best due to the no common sense happiness optimal

 

​​​As I have explained in previous articles, I believe that positive insanity that makes the world happy = positive no common sense will create excitement in the world and increase the happiness of everyone. As I have mentioned in previous articles, I called the true no common sense equilibrium when the cyclical process of common sense and no common sense in the world runs smoothly and reaches a perfect state. However, I also said that in reality the world is imperfect and the process has not been carried out perfectly. Therefore, I believe that a true no common sense equilibrium is rare, or even rare. That's why the world is always in a state of temporary no common sense equilibrium. What I mean is, as I explained so far, if you look at the seesaw balance, it is very likely that the society we live in leans toward either negative or positive no common sense, I think. For example, when the seesaw is normally in balance (true no common sense equilibrium), the ratio of negative no common sense to positive no common sense is 5:5. (In this case, the common sense of the center of the seesaw and the area of ​​common sense that is non-common sense in reality will be disregarded.)
True no common sense equilibrium is just in case, but if it were to be realized, it would be a 5:5 equilibrium, but a true no common sense equilibrium is defined as a state of peace in the world.

State of true no common sense equilibrium = state of no common sense happiness optimal

 

It's the same as when the Pareto optimal is achieved, and I think it's okay to call it another name, no common sense happiness efficiency. If there is room for improvement and it is inefficient, it is called no common sense happiness inefficiency, and improving that inefficiency can be called no common sense happiness improvement.

 

​By the way, I explained the no common sense happiness levels increased effect last time, but this is an index that shows the effect of increasing happiness. In other words, if the maximization of the no common sense happiness levels increased effect is realized, the no common sense happiness will be in an optimal state, so I think you can take it in the sense of =.

 

State in which the no common sense happiness levels increased effect is maximized = state of no common sense happiness optimal

 

 

The above is a brief explanation, but it's just a hypothetical concept that I came up with, so I'm not sure if it's really feasible, and I think it's necessary to verify it. And how do you verify? I think that's the story. Mathematicians and economists who understand difficult formulas may be able to elucidate it ( ̄▽ ̄;)

 

 Thank you for reading this time m(__)m

 

 

非常識幸福度増大効果=おっぱっぴー効果

非常識幸福度増大効果とは?

 こんばんは。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 今回のテーマは非常識幸福度増大効果=おっぱっぴー効果といった、またもや僕の考えたおっぱっぴーな架空用語です。これは一言で言えば「非常識な出来事によって世の中の幸福度が増す効果」のことです。そのまんまやん!って思った方いるかと思いますが、本当にそのまんまです。特に意味はなし( ̄▽ ̄;)今までのような複雑な理論でも何でもなく、ただ「非常識=あっと驚くような感動的な出来事」としてとらえて、そのようなおっぱっぴー的現象によって世の中の幸福度がいかに増すか?という度合いを示す一つの指標です。

 なぜ、このような概念を考えたのか?といいますと、世の中では今、「幸福度ランキング」みたいなものが非常に注目されていますよね?特に国連の世界幸福度ランキングというのは、はっきりと国別の統計データとして発表されています。そして、わが国日本は確か100位以下くらいだったと思います。(何年か前のデータかもしれないので今現在はどうかは不明です、すみません💧)しかし、このランキングから分かるように、日本はGDPでは世界の第三位でトップなのに幸福度ランキングがこれだけ低い( ̄▽ ̄;)なぜか?つまり、簡単に言えば、いくら経済的に豊かであっても世の中の幸福度とは関係ないってことかと思います。言い換えると、物質的にいくら豊かになっても精神的に豊かにならないと幸せにはなれないってことかと思います。

 そういった経緯もあり、今幸福度ランキングというのが注目されているのかと思います。特に先進国各国では注目されているのかな?と思ってます。そういった中で自分はどうやったら世の中の幸福度が増すのか?ということに注目しました。それは、非常識=あっと驚く感動的な出来事が世の中に感動と幸福をもたらすのではないか?と仮説を立てました。だから、非常識がいかに世の中の幸福度に貢献するのか?という指標を割り出したものが非常識幸福度増大効果なんですね・・・。まあ、非常識といってもここで述べる非常識はマナーや素行や態度が悪い非常識ではなく、世の中に感動をもたらす非常識のことです。つまり肯定的非常識のことです。みんながあっと驚くようなイノベーションだったり、何らかの社会的ムーブメントや流行などがそれにあたると思います。また、「宇宙探索でついに土星に生命体を発見した!」みたいなのも感動的な出来事だと思います。もっと身近な例で言えば、新たなお笑いムーブメントが起きてこれまでにない斬新な最新型コントが生まれるとかそういうのも含まれるかと思います。あとは、何か面白い仮装パーティーみたいな恰好をして街中でゴミ拾いをしたらゴミ拾いボランティアムーブメントが起きて社会的現象になった!みたいなのでもいいと思います。

 テレビで言えば奇跡体験!アンビリバボーとかがそういう実際にあった世界の感動的な出来事をたくさん取り上げてます。テレビでこの前やってましたが、体が不自由な少年が外にあまり出られないしやれることもないので、お姉さんに習ってミシンで蝶ネクタイを創るのを趣味で始めたらみるみる上達して、ある日、殺処分されるネコたちについてテレビのニュースで見ていたら少年は「何か僕にできることはないか?」と思い、「ネコたちのクビに蝶ネクタイをつけたらどうか?」と思いつくストーリーがありました。最初はどうなるのか?と思いましたが、猫ちゃんたちは蝶ネクタイを着けることでお客さんたちにものすごい人気が出てみるみるうちに売れて殺処分されないですむようになったそうです!まさにこの少年のアイディア一つで世界が変わった出来事の一つです。これこそまさに世の中に感動を起こすムーブメントの一つだと思います。最初はそんなことうまくいくのか?と疑心暗鬼になるかもしれませんが、そんな非常識なアイディアでも行動に移せば感動的な奇跡を起こす可能性もあるわけです。

 そういったことで、世の中に感動ムーブメントが巻き起これば起こるほど世の中の幸福度は増すのではないか?という仮説です。しかし、僕は学者先生みたいな高度な数学の専門的知識がないため、こんなことどうやって計測するのか?というのは分かりません。まあ、何でもかんでも数値化すればいいってものでもないと思いますし( ̄▽ ̄;)(笑)ただ、そういった概念があればいいのかな?と思う次第です。ちなみに非常識によってもらたされる世の中の幸福度が限界まで最大化されることを非常識幸福度増大効果最大化といいます。

 

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皆様が幸せになれますように。

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English Translation

#8 No common sense happiness levels increased effect

 

What is the no common sense happiness levels increased effect?

 

The theme of this time is the no common sense happiness levels increases effect, which is a fictional term that I came up with. In a nutshell, this is the effect of increasing happiness in the world by an non-common sense event. There is no  other particular meaning ( ̄▽ ̄;)
It's not a complicated theory like before, but it's just taken as "insane = non-common sense = surprisingly moving event"

 

And how does such an insane phenomenon increase the happiness of the world? It is an index that shows the degree of such things.

 

"Why did you come up with such a concept?" Speaking of which, in the world, things like "happiness ranking" are getting a lot of attention right now, aren't they? In particular, the United Nations World Happiness Ranking is clearly published as statistical data by country. And I think our country, Japan, was about 100 or below. (The data may be from a few years ago, so I'm not sure about the current situation, sorry 💧) However, as you can see from this ranking, Japan's GDP ranks third and top in the world, but its happiness ranking is so low (  ̄▽ ̄ ;) Why? In other words, simply put, no matter how rich you are financially, it has nothing to do with the level of happiness in the world. In other words, no matter how rich you are physically, you cannot be happy unless you are spiritually rich.

 

With that background, I think that the happiness ranking is currently attracting attention. Is it attracting attention in developed countries in particular? I think. How can I make the world happier? That's what I noticed. Isn't it that insane = non-common sense = amazing and moving events bring excitement and happiness to the world? I hypothesized. So how does insanity contribute to the happiness of the world? It is the non-comomn sense happiness levels increased effect that deduced the index. Well, even if I say insane, the insane I'm talking about here is not the insane of bad manners, bad behavior, or bad attitude, but the insane that impresses the world. In other words, positive insane = positive no commo sense. I think it could be an innovation that surprises everyone, or some sort of social movement or fad. Also, I think that it is a moving event like "I finally found life on Saturn in space exploration!" To give a more familiar example, I think that it includes the emergence of a new comedy movement and the creation of the latest and novel comedy skits that have never existed before. Also, when I dressed up like a fancy costume party and picked up trash in the city, a volunteer movement to pick up trash started and it became a social phenomenon! 

 

On TV, "Miracle experience! Ambilibabo"*Japanese TV program
takes up a lot of moving events that actually happened in the world. I saw it on TV the other day, but a boy with a physical disability can't go out much, and there's nothing he can do.
So he started making bow ties with a sewing machine as a hobby after learning from his older sister, and he quickly improved. One day, while watching the TV news about the cats being euthanized, the boy wondered, "Is there anything I can do?" What happens first? That's what I thought. There was a story that made me moved so much. He made up with a nice idea and said "Why don't you put bow ties on the necks of the cats?" By wearing bow ties, the cats became extremely popular with the customers, and they were sold no longger and they didn't have to be euthanized! It is one of the events that changed the world with just this boy's idea. I think this is one of the movements that will truly impress the world. Will it work at first? You may be skeptical, but even such an insane idea can create a moving miracle if you put it into action.

 

With that in mind, isn't it possible that the more emotional movements arise in the world, the happier the world will be? 

おっぱっぴー三大理論

おっぱっぴー三大理論

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 今回は、おっぱっぴー平和思想とはちょっと違って脇道それた理論チックなことをご紹介いたします。その中でも、おっぱっぴー=意味不明という概念を考えるうえで非常に重要な三つの中心となる理論です。といっても大して中身がないのですが・・・(;^_^A 中身はないけど三大ってつけるとすごい理論みたいに聞こえるからそうしてるだけです(笑)(;^_^A( ̄▽ ̄;)主に、おっぱっぴー的パラドックスおっぱっぴー的マトリックスおっぱっぴー的ジレンマの三つありますが、それぞれ解説致します。

 

おっぱっぴー的パラドックス

 これは、まさに意味不明なくらいパラドックだよね?という概念です。もはやおっぱっぴーレベルで意味不明なパラドックス現象ということです。例えば、男女は愛し合っているといいながら対立関係に走りトラブルが絶えないような現象を言う・・・一見正しいようなことでもパラドックス に陥ると泥沼化する、ということです。浮気や、不倫や、夫婦喧嘩、成田離婚、コロナ離婚、晩婚化、少子化家庭内暴力。これらは本来なら愛し合うべき男女がやってはいけないことなのですが、人間は矛盾しているからこのパラドックスから抜け出せないのですね。また、他の例で言えば、宗教の対立などが挙げられます。世界にはいろいろな宗教がありますが、昔の例で言えばキリスト教が聖戦と偽り戦争をたくさん繰り広げたこととか、あとはイスラム教もテロをジハードと偽り派閥がたくさんできてお互いに対立している。そして、イスラム教のテロの場合は内部分裂だけに留まらず、シリア内戦などではアメリカやロシアや一般民衆までもが巻き込まれて本当に悲惨な戦争状態となっています。最近のニュースは見てないから現在どうなっているのかは分かりませんが、数年前までニュースをよく見てた時はトランプさんがロシア陣営の空港を空爆したり、逆にロシアがシリアを空爆したり、テロは内部分裂して争ってたり、または民衆の住んでいる地区に自爆テロを起こしたりと・・・本当に悲惨な紛争だと思いました。今現在でも、解決したという情報が入ってきてないのでいまだに泥沼化しているのでしょう。まさに宗教は一見正しいことのように思えても、間違った方向にいくとおかしなことになるといういい例です。極端な間違った方向に正義が行き過ぎるとこうなるのかと思います。これを、正義のパラドックスと呼んでもいいかと思います。正義は正しいけど、度が行き過ぎると戦争になる。つまり正義対正義の争いになるわけです。もちろんシリアの内戦でも、中東戦争でも宗教上だけの理由ではなく、政治や民族対立、資源問題などが複雑に絡んで戦争になってるので一概に宗教だけが原因とは言えませんが・・・

おっぱっぴー的マトリックス

 これは、同じくもはやおっぱっぴーレベルに意味不明なマトリックス現象というそのまんまの意味です。 例えば、一見GDPがトップで日本が経済大国に見えても政治が崩壊すれば国は終わるということです。豊かさに目を奪われて足元を見ないとマトリックの世界に陥るということです。いくら経済的に豊かでも、政治や社会制度が崩壊すると途端に国は立ち行かなくなるということです。だから、我々はみんなちゃんと世の中のことを考えないと国は崩壊するということですね。本来なら民主主義というのは国民が政治のことを考えるという意味だと僕は思ってます。政治家に丸投げしてそれで世の中がおかしくなっても、それは民主主義の意味をはき違えてるだけってことなので、政治家のせいだけにしても仕方がないんですね。国民主権というのは、国民が政治家を選び国民が主体となって政治を行う権利がある、という意味ですが逆に言えば政治家に丸投げするということはその権利を放棄してるってことになるわけです。権利を自ら放棄しているのに、政治家に文句だけ言っても仕方ないわけです。つまり、民主主義というものについて意識しないとこのおっぱっぴー的マトリックスに陥るということです。我々は本当に重要なことに目が行かずに、現実という名の仮想現実を見させられている( ̄▽ ̄;)

おっぱっぴー的ジレンマ

 これもそのまんまの意味で、おっぱっぴーレベルに意味不明なジレンマのことです。例えば、マルサス人口論などが挙げられると思います。これはマルサス先生が考案した理論なのですが、詳しくは知りませんが簡単に言うと「人口が増えすぎるとこの世界は食糧や資源不足が起きるので、私たちは飢餓や貧困問題をあえて積極的に解決する必要はない」といったものだと思います。これこそが、まさにおっぱっぴーレベルに意味不明なジレンマではありませんか?産めよ増やせよって言われるくらい、男女が愛し合って子供を授かることはいいこととされています。聖書にもそのようなセリフがあったかと思います。つまり、神様は僕らが結婚して子だくさんになることを大いに望んでいる。それが人間にとっての幸せなんだと。でも、人口が増えすぎると今度は食料や資源の枯渇問題が起きる?!まさにこれこそ板挟みの状態ですよね?幸せにみんななりたいけどみんなが幸せになろうとすると地球はおかしくなる。まさにおっぱっぴー的ジレンマだと言えると思います。それ以外にもみんなが必死に頑張って仕事をしてビジネスや経済活動を行い世の中がどんどん豊かで便利になることは一般的にはいいこととされてますが、行き過ぎると今度は環境問題が起きるというジレンマが生じます。私たちは経済と環境の板挟み、つまりジレンマに悩まされているわけです。経済と環境はトレードオフの関係にあるわけです。これは、環境経済学などでも言われていることかと思います。まさに、地球が抱える最大の問題という意味で、地球のジレンマともいえると思います。

 以上三つのおっぱっぴー理論について述べさせていただきました。おっぱっぴー平和理論とは直接は関係ないですが、これらの三つの問題を解決すれば世の中もっと平和になるのでは?と思う次第です。といってもすでに世の中はその方向に向かっていろいろな頭のいい学者先生方が解決に向かうべく必死に日夜研究されていることかと思います。

 今回も、ご一読ありがとうございました。

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この世の謎は深まるばかり・・・


 

 

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ハロー効果虚構現象

ハロー効果虚構現象とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 今回のテーマはハロー効果虚構現象という僕が考えた架空の用語です。「常識と非常識の循環プロセスと肯定的非常識をもたらす人たち」の記事でも少しだけ触れましたが、今回の記事では詳細について書きたいと思います。といっても・・・まぁ簡単に言えば、ハロー効果なんてあまりあてにもならないよ?!っていうだけですが( ̄▽ ̄;)(笑) 

 まずハロー効果自体一体なんぞや?ってことで自分も厳密には分かってないのでググってみました。以下のようなサイトがありました。

mba.globis.ac.jp

 ものすごく簡単に言えば「その人の地位や肩書や名声やあるいは専門スキルや特技などがその人の評価を勝手に高めてくれる」ということで、その効果のことを表すのかと思います。前の記事にも書きましたように、ひと昔前までは〇〇大学の教授とか〇〇の専門家、とか何らかの肩書がないと本も出せなかったしマスコミにも出られなかったので世間に対して影響力を行使できなかったのですが、今はネット社会なので、専門家並みにあるいはそれ以上に見識のある人がこれからはたくさん出てくる可能性があるということです。YoutubeSNSなどを利用すれば誰もが平等に意見を発信する権限が与えられているからです。つまり、ひと昔前の時代はこのハロー効果というものを行使しないと世間に影響を与えることは非常に難しかったのかと思います。だから、学者崩れとか教授になれなかったような人材は、一度挫折すると何も発言権がなくなり落ちぶれてしまいましたが、今の時代はそういう人でも必死に勉強してネットで意見を発信すればいずれ誰かに評価されて挽回できるチャンスがあるということです。今はそういった意味では誰にでも平等にチャンスが与えられている時代になりつつあると言えます。

 神様のカルテというある医者が主人公の映画がありますが、この映画の中でこういうセリフがありました。その物語の中で哲学の学者志望だった人が登場するのですが、彼は、挫折してその道を諦めて実家の農業を継ぐために田舎に帰ろうとするんですね。彼は夢破れて自分の不甲斐なさに打ちひしがれて、心身ともに疲れ果てて人生に絶望しているわけですね。しかし、主人公はそんな彼に向ってこう言うんですね。「田舎に帰って農業を継ぐからって一体何なんだ?農業やりながらだって論文くらい書けるじゃないか。どんなに立派な肩書のある教授の書いた論文よりも僕はあなたの論文が読みたい。」と・・・まさに胸にぎゅーんとくるほど核心ついたセリフで感動した記憶があります。

 10年くらい前の映画だと思うので、この映画が流行ったときは今ほどSNSが発達してなくてFACEBOOKツイッターもできたばかりだったと思いますが、この小説を書いた作家さんはまさに核心ついてるというか先見性のある人なんだなと感じました。さすが、作家の方は洞察力が鋭いですね。だからこそ文学賞を取れるのかと思いますが・・・( ̄▽ ̄;)誰もがうすうす疑問に感じてることであっても、中々気づかないことに気づくからこそ感動的なセリフが生まれる。まさに地位や肩書なんかなくたって努力次第で夢は叶えられる可能性はあるってことかと思いました。ハロー効果なんて世間の評価に負けてはいけない、ということかと思います。

 ちょっと本題からずれてしまいましたが、こういうハロー効果というものに負けないくらいの何かを生み出せば今の時代はネットを駆使して誰かに評価される可能性があるということかと思います。自分もネットで検索していろんな人のブログや記事を見ましたが、無名の人でもその道をかなり極めている人というのはものすごい深い見識を持ってるし驚かされることばかりです。「こういう考え方もあるのか~」といつも感動してます。下手したら専門家以上の素晴らしい見識を持っている方もたくさんいるのだと思いますね・・・

 そういった埋もれた人材がどんどん世に出ていって世の中に対していい影響を与えていけば、僕らの住む社会はもっとよりよくなると僕は個人的には思うんですね。おっぱっぴー理論上では、否定的非常識に本来なら分類されてしまう人でも、ネットを駆使して発信し続ければやがて世間に評価されて肯定的非常識として飛躍できる可能性も十分にあるわけです。だから常識と非常識の循環プロセスをいい方向に回せる可能性があるということです。そういった意味ではネット社会というのは私たちに明るい兆しを照らしているような気がします。逆に、成功者と言われている人でも過度なハロー効果に頼ってばかりの人はもはやその才能以上に評価されてるだけなので、半分は運がよかっただけだと言えるといえます。そういう人ももちろん努力はしてると思いますが、本物ではないということですね。そして、そういうハロー効果のみに依存してるだけで中身や実態のない人たちというのは、そういった意味ではハロー効果は虚構なんだということを教えてくれるわけですね。つまりハロー効果虚構現象というやつです。偉い先生や教授さんがテレビで発信している言葉だからって正しいとは限らないわけです。だから、僕らは何が正しくて何が間違っているのか自分たちで判断しないといけないのではないか?と思うんですよね。「〇〇先生がそう言ってるから」とか「テレビでそう言ってたから」とかそういう時代はもう終わりを告げたのだと思います。何が本物なのか?というのは僕らが自分で見極めなければいけない。ハロー効果虚構現象に惑わされてはいけない。

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我々を蝕んでいる社会の闇の一つはハロー効果が虚構であることかもしれない・・・



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仮の非常識均衡

仮の非常識均衡とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。朝早いのに目が覚めてしまい、やることないので記事書いてます(笑)( ̄▽ ̄;)

 今回は仮の非常識均衡という概念について説明させていただければと思います。前の記事で、非常識均衡についてや常識と非常識の循環プロセスについては書かせていただきましたが、その中で、「2.プロセスそのものには全く問題はないが、社会そのものが矛盾しているためいくら頑張ってもプロセスを遂行しきれない。」

というものがありました。これは、僕自身も混乱するくらいに非常に複雑な概念なので前の記事では全部説明しきれなかったものです。厳密にはどういうことかというと、常識と非常識は前の記事の通り上手く以下のようなサイクルで循環しながら時代とともに一見進歩しているように見えるけど、これは見せかけだということかと思います。

 分かりやすくするため、以下に前の記事の内容をまた抜粋致します。

<常識と非常識の循環プロセス>

否定的非常識→肯定的非常識→新たな常識→狭義のおっぱっぴー→否定的非常識

まず、時代の先を行くイノベーションは最初は否定的非常識として分類されまったく評価されないが、次第に「これは斬新なアイディアだ」と認められれば肯定的非常識に分類される。そして、例えば、それがさらに市場で優位に立ってヒット商品などになればそれが新たな時代のスタンダート、つまり常識となれる。しかし、それも時代とともに古くなればまたそれは時代遅れと見なされ、狭義のおっぱっぴーに降格することになる。そして、それがやがて否定的非常識にまた戻されることになる。(前の記事から抜粋)

 このように常識と非常識は一見正しく循環して時代とともに進歩しているように見えますが、実は社会そのものが矛盾しているためうまく循環しきれてないということです。どういうことかというとそれは①否定的非常識の側面②肯定的非常識の側面③常識と狭義のおっぱっぴーの側面と、3つに分けて考える必要があります。以下にまとめて記載致します。

①否定的非常識の側面

これは、何度もニーチェ先生の事例でご説明した通り、いくらすばらしい発見やイノベーションであっても世間に評価されないで埋もれたままになってしまうということです。本来なら肯定的非常識ないし新たな常識として評価されるべきものが、否定的非常識に分類され続けるということです。そういった埋もれた発見がたくさん積もりに積もっていくと否定的非常識の総量があまりにも大きくなってしまい、非常識均衡のシーソーのバランスが崩れ、否定的非常識の方に大きく傾くということです。否定的非常識優位の状態になると言えます。これは社会にとってはあまりよくないことです。私たちの社会をより明るい未来にするためには避けなければならないことです。他にもウォルト・ディズニーさんなどもその事例に含まれると思います。ニーチェ先生と違って生きてる間には評価されたのかと思いますが、最初は「こんなねずみ(後にミッキーとなる)が人気がでるわけがない」とか「エンターテイメントなんて世の中に悪影響を及ぼす不謹慎なものだ」と周りや世間から散々叩かれて反対されたといいます。これも本来なら評価されるべきものが、理解されないがゆえに否定的非常識に分類されてしまった事例だと思います。

②肯定的非常識の側面

これは、肯定的非常識優位になるのは社会にとってはいいこと、と前の記事で書いてしまいましたが、それは非常識均衡が最適な解ではないと仮定した場合のことで、もし非常識均衡が世の中の平和にとっての答えならば、肯定的非常識の方に大きく傾き過ぎるのもよくないということです。どういうことかというと、あまりにもイノベーションが過度に起きすぎて新たな別の負の側面が出てくるということです。例えば、原発なんかがいい例で、原発のおかげで私たちは電気エネルギーを使用できて豊かで便利な社会の中で生活ができますが、3.11のような悲劇が起きるという負の側面もあるわけですよね?また、それ以外にもあらゆる便利な発明は電気エネルギーを消費して地球温暖化を招くことにも繋がります。その他にもAIの開発などがあります。これはAIによって世の中が便利になり仕事のコストパフォーマンスが上がり、助かる人もたくさんいますが、逆に職をロボットに奪われて困る人たちも出てくる可能性があるということです。だからあまりにも過度にイノベーションが起きすぎるのはどうなのか?ということです。そして、これも①と同様、肯定的非常識の総量があまりにも大きすぎるとシーソーが大きく左右のどちらかに傾いてしまうということです。

常識と狭義のおっぱっぴーの側面

常識の場合も、常に常識は新しく生まれ変わるので古いものと新しいものが常に入れ替わるので、時代が変わってもその総量は変わらない、とも言えます。しかし、時代が変わっても相変わらず古い習慣やルールなど時代にそぐわない矛盾した間違った常識がはびこるとどんどん常識の総量が増えていきます。本来なら、古くなった常識は狭義のおっぱっぴーへと降格して、そしてやがて時代遅れだと世間に判断された場合は否定的非常識へと戻されるわけです。しかし、それがうまく循環しないといつまでも狭義のおっぱっぴーの総量が減らないので常識の総量がどんどん増えていってしまうということです。

1.肯定的非常識は世間に認められると新たな常識となる。しかし、その常識はもう時代にそぐわないと判断された場合は狭義のおっぱっぴーへと降格

2.逆に狭義のおっぱっぴーは、時代とともに修正されアップデートされると再び常識に戻される。あるいはもう必要ないと判断されれば否定的非常識に分類される。

このように常識と狭義のおっぱっぴーは行ったり来たりうまく循環するはずなのです。しかし、上記のように時代が変わっても間違った常識がそのままはびこると狭義のおっぱっぴーの総量がどんどんたまっていき常識の総量もどんどん増えていってしまうということです。これはシーソーのバランスとは関係ないですが、シーソーを支える支柱?の部分の体積があまりにも大きくなりすぎて幅が広がってしまう状態だと言えます。そうなると、シーソーはもはや左右にまったく動かず機能しなくなりますよね?つまり身動きがとれなくなり社会が回らなくなる状態と言えます。よく常識でがんじがらめになるといいますが、まさにその状態です。頭が固くなりすぎて凝り固まるということです。

 ご察しの方ならもうお分かりかと思いますが、つまり常識と非常識の循環プロセスは一見正しいように見えてもうまく仕組みが回ってないってことです。なので、一見世の中は非常識均衡になるようで中々なれないということかと思います。シーソーで言えばどちらかに偏っているか、あるいは支柱の幅が広がり過ぎて動かなくなっているか、そのどれかになっているのです。なのでこれを一見、非常識均衡になっているようでそれは見せかけにしか過ぎない、という意味で仮の非常識均衡と呼んでいます。逆に、もしこの常識と非常識の循環プロセスがうまく機能して非常識均衡が成立した場合はそれは真の非常識均衡とも言えるかと思います。

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何らかの社会的制約や矛盾および行動力の不足により常識と非常識の循環プロセスは

遂行しきれなくなり、シーソーは左右いずれかに傾く。

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狭義のおっぱっぴーの増大化により常識が肥大化する。

常識でかんじがらめになっている社会。

ー否定的非常識の領域だけどんどんたまっていく?!ー

自分でも今まで気にしなかったのですが、記事を書いてるうちに矛盾に気づきました(;^_^A( ̄▽ ̄;)それは、常識と非常識の循環プロセスの全領域の中で、否定的非常識の領域だけどんどんたまっていくようなイメージになっているということです。これは、想像すれば何となくで分かります。肯定的非常識はどんどん新たなイノベーションが起きても新しい常識の領域へと変換されていきます。常識の領域も時代とともに古くなれば狭義のおっぱっぴーの領域へと降格して、さらにそれがもはや非常識だと認識されるようになれば否定的非常識の領域へとさらに降格します。しかし、否定的非常識の領域だけ別なのです。どういうことかといいますと、先ほどのニーチェ先生ウォルト・ディズニーさんの例のように、評価されないままのイノベーションで否定的非常識として世間に認識されているものというのは、時代とともにどんどん新たに生まれてくるものです。それとは逆に狭義のおっぱっぴーから降格してきた否定的非常識もどんどん同じ領域に格納されていくことになります。これだと否定的非常識の領域だけ膨れ上がって容量オーバーになります。ですが、大丈夫なんです。否定的非常識というのは世の中を不幸にする非常識という意味なので、世の中にはびこる非常識やマナー違反、ルール違反、暴力、虐待、誹謗中傷、犯罪、その他様々なあらゆる社会問題などがその領域に含まれています。そういったマイナス要因のものは、時代とともに徐々に改善され問題は解決していく、と考えられるからです。なので結局、否定的非常識の領域もプラスマイナスゼロで劇的に増えるわけではないのです。まあ、これはあくまで僕の考えてる仮説なので正しいかどうかは検証してみないと分からないし、一体どうやってこんなこと検証するんや?!みたいな感じのものなので、あまり気にせず「こういう考え方もあるんだな」くらいに気に留めておいていただけたら幸いですm(__)m

 

~おっぱっぴー用語禄~

ぶっとびおっぱっぴー

これは単純にそのまんまの意味で、おっぱっぴーをもはや超越してぶっ飛び過ぎてるくらい意味不明という意味です。時代の先を行き過ぎた発想をするイノベーターは、もはや意味不明の領域を超えて「ぶっとびおっぱっぴー」と言えるのかと思います。ぶっとびおっぱっぴー過ぎると否定的非常識として評価されてしまう危険性があります。この記事の例で言えば、ニーチェ先生ウォルト・ディズニーさんがぶっとびおっぱっぴーに当てはまります。

 

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English Translation

#7 hypothetical no common sense equilibrium

 

What is a hypothetical no common sense equilibrium?

 

 

"This time, I would like to explain the concept of "hypothetical no common sense equilibrium." In the previous article, I wrote about no common sense equilibrium and the cyclical process of common sense and no common sense. "No matter how hard we try, we can't complete the process."

 


This is a very complex concept that confuses me myself, so I couldn't fully explain it in the previous article. Strictly speaking, common sense and no common sense seem to be progressing with the times while circulating in the following cycle.

 


For the sake of clarity, the contents of the previous article are excerpted below.

 


<Cyclical process of common sense and non-common sense>

 


Negative no common sense → Positive no common sense → New common sense → Common sense that is non-common sense in reality → Negative no common sense


First, innovation that is ahead of the times is initially classified as negative no common sense and is not evaluated at all, but if it is gradually recognized as "this is a novel idea", it is classified as positive no common sense. And, for example, if it becomes even more dominant in the market and becomes a hit product, it will become the standard of the new era, in other words, common sense. However, if it becomes old with the times, it will be considered outdated and will be demoted to common sense that is non-common sense in reality. And it will eventually return to negative no common sense. (Excerpt from previous article)

 


In this way, common sense and non-common sense seem to circulate correctly and progress with the times, but in fact, society itself is contradictory, so it is not circulating well. In other words, it is necessary to divide it into three parts: (1) The side of negative no common sense, (2) The side of positive no common sense, and (3) the side of common sense and common sense that is non-common sense in reality. Below is a summary.

 


① Negative no common sense side

 


As I explained many times in the case of Professor Nietzsche, this means that no matter how wonderful discoveries or innovations are, they remain buried without being evaluated by the public. What should normally be evaluated as positive no common sense or new common sense continues to be classified as negative no common sense. When a lot of such buried discoveries accumulate, the total amount of negative no common sense becomes too large, and the balance of the seesaw of the no common sense equilibrium collapses, and it leans greatly toward negative no common sense.

 

 

非常識ゲームの理論~非常識パンデミックゲーム~

非常識ゲームの理論とは?

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです(^_^;)m(__)m

 前回の記事は今までで一番複雑に書いてしまったので少し時間がかかったかと思いますが、できるだけ分かりやすく書いたつもりです。でも、何だか難しく考えすぎでは?と思われた方は申し訳ございません。ですが、理論体系にするには少なからず難しい用語を使って説明しないと成り立たないというのがあります。なので、分かりづらかった方はすみません(;^_^A( ̄▽ ̄;)

 今回はもう少し簡単な概念でちょっと脇道それた理論です。非常識超越平和思想と直接は関係しませんが、間接的に関係してきます。今回は非常識ゲームの理論=おっぱっぴーゲームの理論という自分の考えた理論について書かせていただきます。これはゲームの理論をヒントにして自分なりに考えてみたものです。といってもわたしは学者先生方のように数学や経済学の専門知識があるわけでもなんでもないので数式で証明しようなんてことは到底不可能です。僕はあくまで自称思想家で文系人間ですから、そのアイディアを考え付いたというだけです。経済学部を出てはいますが、帰国子女なので数学は苦手なので・・・(笑)( ̄▽ ̄;)経済学部でゲームの理論は簡単に授業で学びましたが、完全には理解してません。ただ、基本概念は理解しているのでそれをヒントにちょっと面白いアイディアを考えたのでどうぞ聞いてください、というだけです(;^_^A

 ゲームの理論とは一般的には以下のようにWikipediaでは説明されています。

ja.wikipedia.org

 以下のようなサイトもあります。

iroots.jp

 難しい数式的なことはほとんど覚えてないですが、簡単に言えば「みんながお互いにリスクのないように利益最大化を図るように行動すると結局お互いに損をして全体の利益は下がる」ということかと思います。これがいわゆる有名な囚人のジレンマというやつですね。そして、この罠にはまると我々はお互いに損をしてそしてやがて落ち着くとことに落ち着く。それがナッシュ均衡だと捉えています。本来ならパレート最適になるべきなのに、この囚人のジレンマが世の中に存在するためにお互いに協力し合いWin-Winの関係になることは非常に難しいということかと思います。そして、そのことによって社会全体が不利益を被ることを社会のジレンマというそうです。

 これは何も、経済学だけでなく仏教でも「みんなが利己主義の精神で行動すれば世の中は自然と堕落する」みたいなことが言われているそうです。なので、難しく考えすぎずに「もっとお互いのことを考えましょうよ!」ということかと思います。これが利他の精神でありそのことでWin-Winの関係になるのかと思います。そしてその方が社会がよりよい方向にいきパレート最適に近づけるということかと思います。

 そして非常識ゲームの理論というのはこのゲームの理論とは直接は関係ないのですが、利己主義という概念を少しだけヒントにしました。僕個人的には利己主義で生きる、という概念も否定的非常識に分類されるものだと思ってます。その理由は、世の中を不幸にさせる非常識に含まれるからです。そして、自分の場合は利己主義というよりも、むしろ非常識で迷惑な行動というものに焦点を当ててこの非常識ゲームの理論を考えました。簡単に言えば「非常識は感染する。」ということですが、それを以下で解説致します。

非常識パンデミックゲーム

 ライアーゲームというドラマがあります。僕の好きなドラマで何度もリピーターしているのですが、正直者の直ちゃんと天才詐欺師秋山がタッグを組んでライアーゲームを勝ち抜いていき、最後はエデンの園で赤リンゴを揃えるという奇跡を起こす物語です。見てない方もいると思うのでネタばれになってしまうので詳細は割愛しますが、これはまさにゲームの理論とか確率論とか心理学を応用してできているものすごくよくできたドラマだと思ってます。以下にサイトがあります。 

www.fujitv.co.jp

fod.fujitv.co.jp

 これはまさに囚人のジレンマにはまったプレーヤーたちがお互いに心理戦を勝ち抜くことが目的とされるゲームなのですが、最終的な目的というか作者が私たちに本当に伝えたいこととは「人間は欲望に勝てるのか?」ということだと思うんですよね。結局、心理戦を勝ち抜いてお互いつぶし合ってると自分も他のプレーヤーに反撃されるわけで、被害に遭う可能性もあるわけです。だから利己主義は自分の損失ないし全体の損失をもたらすものだと思うのです。だから、結局ゲームの理論と同じですよね・・・(;^_^A( ̄▽ ̄;)

 このドラマの中に、「天使と悪魔のゲーム」というのがあるのですが、天使同士が接触すると天使が増えていくのですが、悪魔に感染するとたちまち悪魔が増殖していく、というゲームです。ネタバレになるのでこれ以上は書きませんが、僕はこのゲームは非常にユニークで面白いと思うのですが、人間というのはここまで極端なのかな?と疑問に思いました。あくまで架空のドラマの中での話なので面白くするためにあえて極端にしてるのだと思うし批判しても仕方ないのですが、実際の僕ら人間って極端な天使も極端な悪魔もいないと思うんですよね(;^_^A せいぜい常識や良識のある人と非常識で良識のない人がいる程度です。もちろん世の中が飢餓とか戦争状態になると人間は極端な悪魔になる可能性もありますが・・・( ̄▽ ̄;)平和で豊かな国においてはそこまでの極端な悪魔ってまれだと思います。まあ、凶悪犯罪者とかは別ですが・・・( ̄▽ ̄;)

 なので、僕の考えるのはこの非常識がどんどんまわりに感染して増殖していくってことですね。実際の世の中は極端な天使=善人も悪魔=悪人もいないので非常識だったり迷惑行為というのが感染して増殖していく、ということです。これを非常識パンデミックゲームといいます。 非常識な人が迷惑行為でまわりに不愉快な想いをさせるとそれが感染し増殖していく。私たちはまわりに親切で優しくていい人がたくさんいて環境に恵まれると自然と穏やかな気分になれます。逆に、まわりに非常識でマナーや態度が悪く不愉快な人がいて何か攻撃的な態度を取られると、自然と自分も不愉快な気分になっていきます。そして、自分が不愉快になるとそれを今度は別の人に当たり散らすということを繰り返していってしまいます。これがまるで伝言ゲームかのように繰り返されるわけですね( ̄▽ ̄;)

 前置きが長くなりすぎてしまいましたが、この非常識パンデミックゲームというのは、どこかで止めないと大変なことになります。この非常識な迷惑行為が伝言ゲームのようにどんどん伝染していくと、それはやがて否定的非常識の増大を招くことになります。そして、否定的非常識優位な社会になると世の中は暗く陰湿なムードになります。なんだかゲームの理論とライアーゲームの説明ばかりになってしまいました・・・大して中身のない理論なので、前置きばかりになってしまいました。簡単に言うと非常識は伝染するというだけです。「非常識伝言ゲーム」と言い換えてもいいかもしれません。

 つまり負の連鎖は止めなければいけない、ということです。

 

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人生の迷惑ゲームは暴かれる・・・

 

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常識と非常識の循環プロセスと肯定的非常識をもたらす人たち

常識と非常識は循環する

 こんばんは。おっぱっぴー芸術思想家KeituUです。

 今回は、前回の記事に引き続き常識と非常識に焦点を当てたテーマで書きたいと思います。ですが、今回はそれがいかに循環するか、つまり繰り返されるか、についてを中心に書きたいと思います。まず、以下でおさらいしたいと思います。

1.世間で正しいと認識されている常識の中で実際に正しいもの

2.世間で正しいと認識されている常識ではあるが、実態は非常識のもの=狭義のおっぱっぴー

3.世間に正しいと認識されてない非常識=否定的非常識

4.世間に正しいと認識されている非常識=肯定的非常識

  • 1.は正しい常識なのでそのまま保留
  • 2.はできるだけ正しい常識に是正
  • 3.はできるだけ肯定的非常識へと変換
  • 4.はできるだけ増やしていく

 これが、前回の記事でお伝えした内容です。これらはもうすでに説明させていただいたので割愛致します。これらは一見、理想のサイクルでこれをうまく循環すれば正しいものだけ残り、間違ったものは淘汰されて理想の社会が実現されると思われます。これらが全部実現すればこの世から悪しき慣習やルールなど非常識が消え去りさも、素晴らしい新たな常識のみが残り理想の社会が実現されるように思えます。しかし、実社会はもっと複雑でそんなに簡単にはいきません。なぜか?それはこのプロセスが単純に繰り返されるのではなく行ったり来たりする仕組みになってるからです。何のこっちゃ?と思われるかもしれませんので、ご説明いたしましょう。

 まず、1.ですが、正しい常識は保留といってもそのまま永遠に保留し続けても時代とともに私たちの住む社会の価値観は常に変わっていくので、いつまでのそのままにしていると時代遅れになってしまいますよね?「常識は常に変わる」のです。これはあらゆる起業家やイノベーターの方が好き好んで使うようなフレーズだと思うので、多分合ってると思います。10年先は今の常識は非常識になっているかもしれないのです。これは昔の時代ならそこまで変わらなくても、今の時代は相当変化が激しいので10年もたてば今の常識なんて通用しなくなっている可能性が高い・・・本当に大変な世の中です( ̄▽ ̄;)つまり、留保するだけでなく「時代とともに常にアップデートする」必要があるわけです。

 次に、2.についてもですが、2つ目の記事で書いたように常識の中に紛れ込んでいる非常識=狭義のおっぱっぴー、というのは本当に目に見えにくく是正しづらいのです。多数派が信じているために常識だと思い込まれている概念なので・・・そして間違いだと世間が認識したとしてもそれを是正するには数年単位、あるいは下手したら10年20年とかかるものなのです。

 そして、3.についてですが、これもニーチェ先生の例でご説明したようにあまりにも難解過ぎたり時代の先を行き過ぎているイノベーションや発明というのは、とにかく時代に理解されないのでいくら努力しても否定的非常識として分類されて評価されないという壁にぶち当たります。これはもはや運、不運の世界であるといっていいでしょう。大してすごいイノベーションでなくても時代を味方につけてうまく世間に評価されれば肯定的非常識として認められ次第に新たな時代を代表する常識へと変わることが可能。逆に、例えすごい潜在能力を秘めたイノベーションでも、運悪く時代に評価されなければ埋もれまままになってしまいます。

 最後に4.についてですが、これも肯定的非常識と見なされたものも時代にとって必要な場合は評価されますが、時代が変わればまた評価されなくなるという可能性もあります。新たな発見とかイノベーションというのは、まず時代に受け入れられないと最初は否定的非常識に分類されます。しかし、徐々に世間に評価され始めると次第に肯定的非常識に昇格します。そしてそれが最終的には新しい時代のスタンダードとして評価され始めると新たな常識へと変えられていきます。つまり3→4→1というプロセスを経てようやく新たな常識となれるわけです。そして、何よりも残念なことに、肯定的非常識として新たなイノベーションとして認められて最終的に新たな常識として認識されたとしても、すぐにまた結局新たな次の常識によって淘汰されることがあるということもあります。市場において絶対的に優位にある製品やブランドなどはその優位性はちょっとやそっとでは揺るがないですが、単なる流行などはすぐにこのプロセスによって淘汰されます。例えばですが、大した名曲でもないのにマスコミによる宣伝だけで売れたちょっと流行りの曲や、あるいはちょっと若者に一時的にうけて売れただけの服のブランドなどが特にそうですよね?

つまり時代によって評価されるプロセスは以下のようなサイクルを繰り返すことになります。

否定的非常識→肯定的非常識→新たな常識→狭義のおっぱっぴー→否定的非常識

まず時代の先を行くイノベーションは最初は否定的非常識として分類されまったく評価されないが、次第に「これは斬新なアイディアだ」と認められれば肯定的非常識に分類される。そして、例えば、それがさらに市場で優位に立ってヒット商品などになればそれが新たな時代のスタンダート、つまり常識となれる。しかし、それも時代とともに古くなればまたそれは時代遅れと見なされ、狭義のおっぱっぴーに降格することになる。そして、それがやがて否定的非常識にまた戻されることになる。

 以上、まとめたようになるのでこれだと永遠に同じプロセスが繰り返されるだけではないか?と思われるかもしれません。しかし、このプロセスを経ることで逆に時代は徐々に進歩するとも解釈できます。ですが、前述したように、時代の先を行き過ぎた否定的非常識は評価されにくく、肯定的非常識ないし新たな常識と評価されないままで終わってしまうケースも多々あります。そして、狭義のおっぱっぴーも本来なら修正されて常識へと戻す必要があるのですが、是正されないまま放置されているケースもたくさんあります。法律なんかがいい例だと思います。専門家でないのでよく分かりませんが、すでに時代遅れになっている条文なのにそのままになっているケースがあるそうです。そういうのは本来なら修正して常識へと是正するか、あるいは使い物にならないと判断すれば条文から削除して否定的非常識に分類するべきものなのです。

 このように時代とともにこれらのプロセスを繰り返すことで時代は常に進歩していく、と考えられます。でも、察しのいい方はお分かりだと思いますが、「じゃあこのプロセスのまま時代が進歩するならこのままでいいじゃん?」と思われるかもしれません。わざわざ肯定的非常識優位などという概念を生み出す必要はないかもしれません。しかし、私はこれだけでは不十分だと考えます。それはその時代にとってはよりベターな選択であるというだけにしか過ぎないからです。このプロセスを経ることで時代は少しづつ進歩はしますが、それはその時代にとってはよりベターで一応社会的には最適に落ち着いているというだけで、それでは本来の意味での最高レベルの解にはなっていないということです。

つまり以下のように言えると思います。

世間一般的には良いと思われている社会≠本来のあるべき理想の社会

別の見方をすると

見せかけの最適な解≠本当の最適な解

どういうことかというと、このプロセスが永遠に繰り返されるといつまでたっても大半の常識の分量が変わらず、その両脇に否定的非常識と肯定的非常識がシーソーのごとくぶら下がっている状態です。つまり前の記事の通りに、均衡が保たれている=非常識均衡の状態である、ということです。それをよしとする人ならそれで問題ありません。楽観主義の人なんかはそう思うかもしれません。その時代の見せかけの最適な解が得られればそれで充分人生も社会も幸せだと思うかもしれません。しかし、よく考えてみてください。その時代その時代の見せかけの最適な解が得られれば世の中が平和になるのが本当ならば、これだけ多くの社会問題が発生するでしょうか?これだけの不幸な人たちが存在するでしょうか?特に日本は年間3万人以上もの自殺者がでる自殺大国です。精神疾患で病んでいる人たちやひきこもりやニートの人たちもたくさんいます。そういう人たちはなぜか救われていない。つまり、非常識均衡では世の中から不幸な人がいなくなっていない、ということかと思います。

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常識と非常識は常にこの循環プロセスを回りながら時代とともに進歩する

イノベーター=肯定的非常識をもたらす人たち

 私たちの社会は本当に複雑な要因が絡みあっているのでこのようなプロセスだけでは簡単には説明できないかもしれません。でも、単純化するとこういうこだと自分は解釈しています。そして、前述のようなプロセスを繰り返すだけでは不幸な人たちや虐げられている人たちが永遠にいなくならない。あるいは、個人的な解釈ではそのプロセスを完全に遂行できてないからそうなるのか?とも思えます。プロセスを遂行しきれてないからこそそこに穴が生じて社会に亀裂が生じる、とも考えられます。

つまり以下の2通りの可能性があります。

1.この常識と非常識の循環プロセスの仕組み自体にそもそも欠陥がある。

2.プロセスそのものには全く問題はないが、社会そのものが矛盾しているためいくら頑張ってもプロセスを遂行しきれない。

 このような可能性があると僕は考えています。しかし、どっちが正しいのか答えは分かりようがない。1.が真であるならば、もはやこの循環プロセスそのものを見直して新しい仕組みが生まれないことには世の中は平和にはならないということになります。そして、2が真実ならば、もっと一人一人が行動すれば世の中は平和になる、ということになります。あるいは、実際の社会はもっと複雑な要因が絡んでいるので1.と2の両方が原因かもしれません。つまり、プロセスそのものにも欠陥があり、また社会や行動そのものにも問題がある可能性があるということでうす。その場合は、このプロセスを見直して仮に改善できる余地が多少あるなら改善して、後は一人一人が世の中のために行動すればいいだけ、ということになります。

 2.の場合は今まで述べてきたことですべて問題が解決することになります。つまり一人一人の意識改革さえできれば世の中が平和になる、ということかと思います。そして、その場合は非常識均衡=最適な解になるのかと思います。あるいは最適な解とは言い切れなくても限りなく平和な世の中に近づける、という意味かと思います。

 しかし、一番厄介で問題なのは果たして1.あるいは2.のどちらが正しいのか我々人間には把握しようがないことです。2が正しい場合は、プロセスを繰り返すことでやがて非常識均衡に落ち着き、それが正しい答えになるので社会はこのままでよく、一人一人の意識を変えればいいだけになります。しかし、もし仮に1が正しいとするとなるともはや社会の仕組みそのものを変えていかなければならなくなります。先ほどはプロセスを見直せばいいと述べましたが・・・しかし、残念なことに最大の問題は、社会や世の中の仕組みを劇的に変えるなんて早々できないということです。ですので、社会の仕組みそのものを変えるのではなく、代わりに以下のようにすればいいのではないか?と仮説を立てました。

「肯定的非常識の総量を劇的に増やせばいいのではないか?」

という考え方です。上記のサイクルが仕組みとして不充分ならば、もはや非常識均衡のバランスを覆してとにかく肯定的非常識の総量を増やせばいい、ということです。そのためには世の中に埋もれている人材=イノベーターをとにかく発掘して世に送り出す必要があるということです。世の中には成功者と言われる人以外でも埋もれた潜在能力のある人材は大勢いると思ってます。マスコミにたくさん出てたり、地位や肩書がある人だけがすごいと世間は見なす傾向が強いですが、今はネット社会なので、ネットのブログなどで発信している一個人の人たちでも専門家以上にすごい見識のある人とかは簡単に発見することができます。下手したら専門家以上にすごい見識と洞察力を持ってるかもしれない。ひと昔前までだったら、〇〇大学の教授とかの肩書がなかったら本すら出せなかったし、マスコミにも出れなかったけど、今の時代ならブログやツイッターなどのSNSあるいはYoutubeなどで自由に何でも発信することができる。つまりもはや今の時代は地位とか肩書なんて単なる見せかけだということです。ハロー効果と呼ばれるものは単なる虚構にしか過ぎない時代になってきています。僕はこれを個人的にハロー効果虚構現象と呼んでいます。

 そしてそういうイノベーションを起こせる可能性のある潜在能力を秘めた人材がもし埋もれてたらそれを引き上げてあげることで、彼らは世の中に肯定的非常識をさらにもたらすことができるわけです。彼らイノベーターたちは肯定的非常識をもたらす人たちなのです。

 そして、これは誰にでもできるということです。何も難しい専門的なことでなくても世の中をよりよくするちょっとしたアイディアをブログなどで発信し、それが誰かの目に止まりそしてネットで拡散されればそれはもう世の中に肯定的非常識をもたらしたことになります。ひょっとしたらフリーライターの目に止まってそれが記事になって世の中に広まる可能性だってあるわけです。つまり世の中を変えられる人たちというのは何もイノベーターだけに限らないということです。いや、むしろ我々みんながイノベーターといえるかもしれません。イノベーター=何か新しい起業や発明をする人、という概念ではなく、みんながイノベーターなのです。イノベーター=肯定的非常識をもたらす人たち、ということです。そして、我々一人一人がちょっとしたアイディアを出して世の中をよくする行動を起こせば世の中は劇的によくなるのです。これはもはや肯定的非常識の奇跡と呼んでもいいかと思います。

 以上、長文でしたがご一読ありがとうございました。

 

 

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English Translation

#6 Circular process of common sense and non-common sense

 

This time, I would like to continue with the theme of the previous article, focusing on common sense and non-common sense. However, this time I would like to focus on how it cycles, that is, whether it is repeated. First, I would like to review the following.

 

1. What is actually correct among common sense that is recognized as correct in the world

2.It is common sense that is recognized as correct in the world, but in reality it is non-common sense

3.Non-common sense that is not recognized as correct by the world = Negative no common sense

4.Non-common sense that is recognized as correct by the world = Positive no common sense

 

​​1. is correct common sense, so it is retained as it is

2. Correct common sense as much as possible

3. Convert to positive no common sense as much as possible

4. Increase as much as possible

This is what I told you about in the previous article. I have already explained these, so I will omit them. At first glance, it seems that if this ideal cycle is successfully circulated, only the correct ones will remain, and the wrong ones will be eliminated, leading to the realization of an ideal society. If all of these are realized, even if bad customs and rules disappear from this world, only wonderful new common sense will remain, and an ideal society will be realized. However, the real world is more complicated and it is not so easy. why? This is because the process is designed to go back and forth rather than simply repeating itself. You might think “What are you trying to say?” This may seem confusing, so let me explain.

 

First of all, as for 1., even if correct common sense is withheld forever, the values of the society we live in will always change with the times, so if we leave it as it is, it will become obsolete. It's going to end up like that, right? “Common sense always changes.” I think this is a phrase that every entrepreneur and innovator would love to use. 10 years from now, common sense may be non-common sense. In the old days, things wouldn't have changed that much, but in this day and age, the changes are so drastic that it's highly likely that the current common sense won't work in 10 years...

It's a really tough world ( ̄▽ ̄;).

 

Next, as for 2., as I wrote in the second article, it's really hard to see and correct the non-common sense that is already recognized as common sense. It's a concept that is believed to be common sense because the majority believes it...and even if the world recognizes it as a mistake, it will take years, or 10 or 20 years if things go wrong, to correct it. That's it.

 

As for 3., as explained in the example of Professor Nietzsche, innovations and inventions that are too difficult or ahead of the times will not be understood by the times, so no matter how hard you try, you will end up being classified as negative no common sense and not evaluated. It can be said that this is a world of luck and misfortune. Even if it is not a great innovation, it is possible to be recognized as positive no common sense and gradually change to common sense that represents the new era if it is well evaluated by the world. On the other hand, even innovations with great potential will be left untouched if, unfortunately, they are not appreciated by the times.

 

Finally, regarding 4., things that are considered positive no common sense will be appreciated if they are necessary for the times, but there is a possibility that they will no longer be appreciated if the times change. New discoveries and innovations are initially classified as negative no common sense if they are not accepted by the times. However, when it gradually starts to be evaluated by the world, it is gradually promoted to positive no common sense. And when it finally begins to be evaluated as the standard of the new era, it will be changed to a new common sense. In other words, after going through the process of 3→4→1, we can finally become a new common sense. And most unfortunately, even if it is recognized as a new innovation as a positive no common sense and finally recognized as a new common sense, it may be quickly and eventually weeded out by the next new common sense. That's what it means. Products and brands that are absolutely dominant in the market will not lose their superiority, but mere fads will soon be weeded out by this process. For example, songs that aren't even very popular, but are a little trendy that sells only through publicity in the mass media, or clothing brands that are only temporarily popular with young people and sell well.

 

In other words, the process of evaluation according to the times repeats the following cycle.

 

​Negative no common sense → Positive no common sense → New common sense → Common sense that is non-common sense in reality → Negative no common sense​

 

First of all, innovations that are ahead of the times are initially classified as negative no common sense and are not evaluated at all, but if they are gradually recognized as "this is a novel idea", they are classified as positive no common sense And, for example, if it becomes even more dominant in the market and becomes a hit product, it will become the standard of the new era, in other words, common sense. However, if it becomes old with the times, it will be considered outdated and will be demoted to “Common sense that is non-common sense in reality.” And it will eventually return to negative no common sense.

 

Since the above is a summary, isn't this just repeating the same process forever? You might think that. However, by going through this process, it can also be interpreted that the times will progress gradually. However, as mentioned above, it is difficult to evaluate negative no common sense that is too ahead of the times, and there are many cases where it ends without being evaluated as positive no common sense or new common sense. Also, common sense that is non-common sense in reality

should be corrected and returned to common sense, but there are many cases where it is left uncorrected. I think law is a good example. I'm not an expert, so I don't know for sure, but it seems that there are cases where provisions that are already outdated are left as they are. Originally, such things should be corrected and corrected to common sense, or if they are judged to be unusable, they should be deleted from the text and classified as negative no common sense.

 

非常識均衡=おっぱっぴー均衡について

常識と非常識と明るい社会

 おはようございます。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。朝なのに目が覚めてしまいましたので、ブログ書いてます(;^_^A( ̄▽ ̄;)

 今までの記事を読んでお分かりになったかと思いますが、世の中には常識と非常識が混ざり合ってそれぞれが非常に複雑に絡み合っている、ということかと思います。そして今まで書いたことを以下のようにまとめることが可能かと思います。

1.世間で正しいと認識されている常識の中で実際に正しいもの

2.世間で正しいと認識されている常識ではあるが、実態は非常識のもの=狭義のおっぱっぴー

3.世間に正しいと認識されてない非常識=否定的非常識

4.世間に正しいと認識されている非常識=肯定的非常識

2だけだと狭義のおっぱっぴーになるけど、それに3と4を足し合わせると広義のおっぱっぴーになります。2はできるだけ正しい常識やルールに是正していく必要があるし、3は先ほどのニーチェ先生の例のようにできるだけ肯定的非常識へと変換していく必要がある。そして4の肯定的非常識はできるだけ増やしていくことで世の中をよりイノベーティブで明るい未来へと変えていくことができる。つまり世の中を変えていくために、1~4の概念をどうすればいいのか?を簡単にまとめると以下のようになります。

  • 1.は正しい常識なのでそのまま保留
  • 2.はできるだけ正しい常識に是正
  • 3.はできるだけ肯定的非常識へと変換
  • 4.はできるだけ増やしていく

 このように、できるだけ正しいものは留保し、間違ったことは是正していくということにより私たちの未来をより明るくすることが可能だと考えられます。なんだ、そんなこと当たり前じゃないか?と思われるかもしれませんが、意外とこれは「何が正しくて何が間違っているか?」というのをはっきりしないことには、明確に何をどうすれば世の中よくすることができるのか?という答えが中々分かりづらいというのがあるからです。

非常識均衡とは?

 さて、この記事の本題の非常識均衡=おっぱっぴー均衡とは一体なんぞや?と思われたかもしれませんが、これは簡単に言えば肯定的非常識と否定的非常識の割合が均衡している状態のことを指します。通常は世間の常識やルールというのが社会の中心にあり世の中の大半を占めている。その中に常識でありながら実態が非常識である狭義のおっぱっぴーが存在する。そして、その左右に肯定的非常識と否定的非常識がくっついていて微妙にバランスをとっている状態なのがこの世の仕組みだと思うのです。通常の正常な世の中ではこの肯定的非常識の割合と否定的非常識の割合が均衡していると考えられます。あくまで仮説であり推測にしか過ぎないのですが、これが同じくらいの割合でバランスが保たれていてまるでシーソーのように行ったり来たりしているのがこの社会なのです。そして、そのシーソーのごとくバランスが保たれているがゆえにこの世界は極端なイノベーションにも極端な悪い意味での非常識にも染まらず均衡がとれているとも解釈できます。この均衡状態のことを非常識均衡=おっぱっぴー均衡と呼びます。

 

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非常識均衡はシーソーのバランスが保たれているイメージ

肯定的非常識優位と否定的非常識優位

 ここまで読んでご察しのいい方ならお分かりかと思いますが、このシーソーのバランス状態はあくまで行ったり来たりしていて均衡が保たれている状態のことを指しますが、それが果たして本当にいいことなのか?というのは誰にも分からないです。先ほどはシーソーのバランスが保たれているから世の中のバランスが保たれている、と述べましたが、それをよしとしない人たちも大勢います。世の中の矛盾や不条理に苦しめられている人たちはこの否定的非常識というのに人生を悩まされているのです。例えば、信頼されていたビジネスパートナーに裏切られて借金地獄で苦しんでいる人、愛していた恋人に裏切られ突然婚約破棄され異性を信じることができなくなった人たちなどです。こういう人たちは、否定的非常識の被害者であり、つまりできるだけこの世の不条理はなくなってほしいと願っていると思うのです。逆に、起業家として成功して大いに成功者としての人生の幸せを享受している人たちは肯定的非常識の世界の中で生きているので、あまり否定的非常識の世界を知らない。もちろん成功するまでは大変な苦労をしていた、というのはありますが。

 このように、この世の仕組みは肯定的非常識と否定的非常識の量のバランスが保たれてるからこそシーソーのごとく世の中は安定している、とも考えられる反面、逆にこの均衡をあえて崩して、肯定的非常識の総量をより多くすることで世の中がより平和になるという仮説も成り立ちます。みなさんも想像してみれば分かりますように、普通に考えてネガティブなことよりポジティブなことの方がいいと思いませんか?(;^_^A?

 そして、このシーソーの均衡が崩れて肯定的非常識の総量が否定的非常識の総量を上回ることを肯定的非常識優位と言い、逆に否定的非常識の総量が肯定的非常識の総量を上回ることを否定的非常識優位と言います。

 先ほどの均衡が保たれている状態がよしとする人にとってはまったくどうでもいい話なのですが、それらを望まない人たちにとっては、肯定的非常識優位になると世の中の幸福度や感動が増えて社会や未来はより明るい方向に進むと考えられますし、逆に否定的非常識優位になると世の中の不満が苦悩が増えて社会や未来はより暗い方向に進むと考えられます。

 以上非常識均衡についてご説明致しました。これはあくまで仮説なので果たして均衡状態のままがいいのか、それとも社会をより明るくするために肯定的非常識優位の世界にするべきなのか?それは僕ら人間には分かりようがなく、もはや神のみぞ知る世界だと思ってます。ですので、結論はないということになりますが、非常識超越平和思想ではできるだけこの肯定的非常識を増やしてイノベーティブでクリエイティブで明るい未来を築いていき世界を平和にする、という前提に立っていて、その考え方をベースにした理論体系となっています。個人によって価値観は違うと思いますが、皆様はどちらが正しいと思われますでしょうか?あるいはまったく別の解があるのかもしれません・・・

 

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肯定的非常識優位になると肯定的非常識の総量が増えシーソーが左に傾く

 

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否定的非常識優位になると否定的非常識の総量が増えシーソーが左に傾く

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English Translation

#5 No common sense equilibrium

 

Common sense, non-common sense, and a bright society

As you may have understood by reading the articles so far, I think that the world is a mixture of common sense and non-common sense, and each of them is very intricately intertwined. And I think I can summarize what I've written so far:

1. What is actually correct among common sense that is recognized as correct in the world

2.It is common sense that is recognized as correct in the world, but in reality it is non-common sense

3.Non-common sense that is not recognized as correct by the world = Negative no common sense

4.Non-common sense that is recognized as correct by the world = Positive no common sense

For 2, we need to correct common sense and rules as much as possible, and for 3, we need to convert it into positive no common sense as much as possible. And we can change the world to a more innovative and bright future by increasing the 4 positive no common sense as much as possible. In other words, what should we do with concepts 1 to 4 to change the world? can be summarized as follows.

​​

1. is correct common sense, so it is retained as it is

2. Correct common sense as much as possible

3. Convert to positive no common sense as much as possible

4. Increase as much as possible

​​

In this way, we believe that it is possible to make our future brighter by withholding what is correct as much as possible and correcting what is wrong. “What, isn't that a matter of course?” You may think that, but surprisingly, this is not clear about "what is right and what is wrong?" and we don’t recognize those things in this world. This is because the answer is somewhat difficult to understand.

 

What is no common sense equilibrium?

​ By the way, what exactly is the main subject of this article, the no common sense equilibrium? You may have thought that, but simply put, this refers to a state in which the ratio of positive and negative no common sense is balanced. Usually, common sense and rules of the world are at the center of society and occupy the majority of the world. Among them, there is a common sense that is in reality non-common sense. And I think that the structure of this world is a state in which the positive and negative no common sense are attached to the left and right, and the state is delicately balanced. In a normal world, it is thought that the ratio of positive no common sense and negative no common sense is balanced. It's just a hypothesis and a guess, but in this society, the balance is kept at the same rate and it goes back and forth like a seesaw. And because this seesaw-like balance is maintained, it can be interpreted that this world is in balance without being tainted by extreme innovation or insane in an extremely bad sense. This state of equilibrium is called an no common sense equilibrium.

 

非常識超越という概念

そもそもなぜ常識ではなく非常識を超越するのか?

 

 こんにちは。おっぱっぴー芸術思想家KeithUです。

 ここまで読まれた方は、なぜ非常識超越平和思想というのか?と思われたかもしれません。今までの記事で思想の意味やおっぱっぴーの概念についてはご説明しましたが、なぜこの思想が常識ではなく非常識を超越するのか?については言及していません。これは非常に分かりづらい概念なので一つ一つご説明致します。

 そもそも通常は常識を超えるから新しい何かが生まれる?と考えられています。常識や既成概念に捉われないからこそ新しい発想が生まれて時代は進歩していく。岡本太郎先生「あなたは常識人間を捨てられるか?」とご自身の著書で述べられています。私もそれに共感致します。しかし、よく考えてみると常識を超えた新しい何か?というのは時代に受け入れられない可能性が高いということが分かります。

それには以下のような理由があります。

1.時代の先を行き過ぎていると時代がついていかれない。

2.この世にないものというのは非常に難解に聞こえるので、世間に理解されづらい。

3.例え理解されたとしても、圧倒的に人数の多い反対派に邪魔され潰される。

4.新しい概念というのは大抵は社会の中にある既成概念を打ち破るものなので、保守派にとっては都合の悪い内容である可能性が高い。よって既得権益者によって潰される。

 上記のような理由から新しい発想=常識を超えたもの、というのはせっかく世の中を変えるイノベーションになりえるものであっても理解されなかったり、反対派により潰されて芽がでない可能性が高いということです。それによってせっかくいいアイディアを出しても目が出ないまま埋もれている人材もたくさんいると考えられます。例えば、昔の偉人で言えば、ゴッホや、ニーチェガリレオなどがその典型だと思います。私は、それが現代社会でも今なお続いているのではないか?と思っています。

 つまり、常識を超えた何かというのはせっかく価値あるものでも、世間からすると非常識とみなされる場合が多々ある、ということです。つまりアウトロー扱いされるということです。だから、今までの記事で説明した否定的非常識に分類される可能性があるということです。世の中には常識といわれるものの中に紛れ込んでいる実態が非常識なもの=狭義のおっぱっぴーが実在するのとは逆に、常識として認められずに否定的非常識扱いされているものの中に、実は新たなる常識として時代を変えていく可能性があるものが紛れているということです。別の言い方をすれば否定的非常識と見なされているものの中に、実は世の中をいい方向に変えてくことができる肯定的非常識が紛れ込んでいるということです。せっかく価値があるのにその価値が見いだされず埋もれている状態のことです。つまり常識を超えようとしただけでは、世の中には理解されないこともあり、異端児扱いされ非常識と見なされて価値を評価されないということです。

 ここまで読んでご察しの方はお分かりかと思いますが、常識を超えようとするだけでは理解されないのなら、むしろ非常識すら超えなければならないということです。現状、非常識扱いされているものでもその非常識を飛び越えて突き抜けてしまえば時代に理解さえる可能性があるということです。理解されないままなら所詮非常識の状態で終わってしまい、世間に価値を認められずに役に立たないで終わるということです。だから、非常識すら超越すれば時代を変える原動力になりえるということです。どうせ非常識で異端児扱いされるなら非常識すら飛び越えてしまおう、という発想です。簡単に言えば突き抜けてしまえ!ということです。

 しかし、そんなこと簡単にできるわけないじゃないか?と思われるかもしれません。むしろ突き抜けてしまったがゆえに時代が追いついていかれずに理解されずに人生を終えた偉人もいます。ニーチェ先生なんか特にそうだと思います。彼の場合は若くして教授にまでのぼりつめた天才でしたが、それゆえに理解されずに学会から追放されたといいます。最初は出版社と契約して本を出してたそうですが、それも打ち切られ最後は自費出版で本を出していたがまったく売れずに精神病になり最後は発狂して自殺する。理解されずに人生を終えた天才の典型だと思います。彼は常識を飛び越えてしまったがゆえに本当は肯定的非常識をもたらす天才だったのに、世間に理解されずに否定的非常識として分類されてしまった、ということかと思います。そういう例もあるので一概には言えないのですが、でもなぜ彼が理解されなかったのか?というのは一つの例として

1.当時はキリスト教文化主流だったので、彼の反キリストの思想が理解されなかった。

2.哲学者であるがゆえに難解すぎて理解されなかった。

というのがあるのかと思います。

 もちろん、これは専門家でない素人の僕の意見なので正しいかは分かりませんが、これらの壁を越えようと働きかけ努力すれば彼はもっと評価されたのだと思います。特に哲学書というのは文章が難解すぎて理解されないというのもあります。それをもっと誰にでも分かりすい容易な文章に変えれば彼は生前に理解されたのでは?とも思います。もちろんこれは僕の意見なので「そもそも哲学書は難解な文章だからこそ価値がある。」と思われる方もいるかもしれません。しかし、今の時代ならSNSがあるからネットで発信すればだれかが見てくれて評価してくれるかもしれないけど、当時はそんな便利なものもなかった、というのは言えると思います。SNSはそういった意味では新たな価値を生み出しているともいえます。そういうSNSのいい面を利用すれば、そういう埋もれた人材を助けることにつながるのでは?とも思います。このSNSやネット社会が今までにない新たな価値を生み出している=肯定的非常識を生み出しているともいえると思います。また、埋もれている人材はまわりに理解してもらいサポートしてくれる人がいなければいけなかったのだな?とも思います。いくら天才でも、まわりのサポートなくしては大きく飛躍することができず、その才能を無駄にして人生を終えるということかと思います。だから持つべきものは友だな?と改めて思います。人は出会いで人生が変わるといいますが、まさにそれだと思います。

 以上、書いたことを簡単にまとめると

1.常識を超えようとすると理解されなかったり拒絶されることもある。

2.そして理解されないと非常識扱いされる。

3.しかし、非常識扱いされてもいかにそれを乗り越えていくかで理解されていくことにつながる。

 つまり非常識を超える=非常識超越=超おっぱっぴーということです。(なぜ超おっぱっぴーというのかは下記のおっぱっぴー用語禄を参照)そしてその非常識を超越するともはや新たな常識へと変えられていくことになります。このプロセスを経ることで埋もれている人材を掘り起こして世の中にイノベーションをさらに起こせると考えられます。このサイクルを繰り返すことによって、負の連鎖をとめることができ、世の中をもっとよくするいい意味での循環プロセスが生まれると考えられます。

 最後にですが、こんなこと天才にしか実現不可能じゃないか?と思われるかもしれません。しかし、何も特別なことなどしなくても誰にでもこういったことは起こせることなのです。例えば、日常生活でも誰かのために役に立ちたいと思えばちょっとしたことでも世の中をよくすることができる。例えば街ゆく人みんなに笑顔で挨拶をする、とか誰も見てないのに道端に落ちている空き缶を拾う、とかそういったことです。これはでも、誰にでもできるようで簡単なことではないです。むしろ挨拶などは、一般的にコミュニケーション能力が劣ってると言われる天才肌の人たちよりも、普通の人たちの方ができることなのかもしれません。こういうちょっとしたことでも世の中を明るく変えることができます。それにちょっとしたアイディアで世の中を変えられることは他にもたくさんあると思います。町内会で人と違った斬新なアイディアを出してコミュニティーを活性化させる、というのも一つの例だと思います。こういったことは誰にでもできるし、最初は反対されて非常識扱いされるかもしれませんが、やがて賛同者が増えればその非常識もやがて常識に変わるのです。

 

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非常識超越の概念イメージ図

~おっぱっぴー用語禄~

 非常識超越=超おっぱっぴー

常識を超越しても世間に理解されなければ否定的非常識として扱われ、無価値のままで終わってしまう。その非常識な状態を超越しようとする発想。否定的非常識を肯定的非常識へと変換し、そしてそれはやがて新たな常識へと変えられていく。つまり、おっぱっぴーの概念すら超越するという発想なので、別名超おっぱっぴーという。

 

English Translation

#4 No common sennse transcendence

 

For those of you who have read this far, why do you call it an no common sense transcendental peace theory? It may have been thought. In previous articles, I have explained the meaning of the theory, but why does this theory transcend non-common sense and not transcend common sense. This is a very difficult concept to understand, so I will explain it step by step.
 
In the first place, something new is born because it usually exceeds common sense. It is precisely because we are not bound by common sense and preconceived notion, new ideas are born and the times advance. Taro Okamoto also said in his book, "Can you throw away common sense people?" I agree with that. However, when you think about it, something new beyond common sense is mysterious to us all and really difficult to understand. So, you can see that there is a high possibility that it will not be accepted in the times.
 
This is for the following reasons.
 
1. If it’s too ahead of the times, ordinary people cannot keep up with it.
 
2.It is difficult for the world to understand because it sounds very difficult to listen to the story about something does not exist in this world.
 
3. Even if they are understood, they will be thwarted and crushed by the overwhelmingly large number of opponents.
 
4. Since new concepts usually break the established concepts in society, there is a high possibility that the content will be inconvenient for conservatives. Therefore, it will be crushed by vested interests.
 
For the above reasons, new ideas = things that go beyond common sense, even if they can be innovations that change the world, there is a high possibility that they will not be understood, or they will be crushed by opponents and will not germinate. So, it they will end up with accomplishing nothing if they come up with good ideas. For example, when it comes to great men of the past, van Gogh, Nietzsche, and Galileo are typical examples. I wonder if it still continues in modern society. I think.
 
In other words, even if something that goes beyond common sense is valuable, it is often viewed as insane by the public. In other words, they are treated as outlaws. Therefore, it can be classified as negative no common sense as explained in the previous articles. There are things that are not recognized as common sense and are treated as negative no common sense. It means that something that has the potential to change the times as a new common sense is mixed up with negative no common sense. In other words, what is considered to be negative no common sense is actually mixed with positive no common sense that can change the world for the better. It is a state in which the value is not found and buried even though it has value. In other words, if you just try to go beyond common sense, you may not be understood by the world.
 
If you've read this far, I think you'll understand, but if you can't be understood just by trying to go beyond common sense, then you have to go beyond even the non-common sense. Even if things are currently treated as insane, if you jump over the insane and break through, there is a possibility that it will even be understood in the times. If it is not understood, it ends up in a state of insaneness, and ends up being useless without being recognized by the world. Therefore, if we transcend even the non-common sense, we can become a driving force to change the times. The idea is that if you are insane and treated as a heretic anyway, let's jump over even insane. Simply put, break through! That’s it!
 
 
"But it can't be that easy, can it?" You might think that. Rather, there are great people who ended their lives without being understood because the times did not catch up with them because they had penetrated. Professor Nietzsche, in particular, thinks so. In his case, he was a genius who rose to the rank of professor at a young age, but it is said that he was expelled from the academic society because he was not understood. At first, he signed a contract with a publisher to publish a book, but that was also canceled, and in the end he published a book at his own expense, but it did not sell at all, and he became mentally ill and eventually went insane and committed suicide. I think he is the epitome of a genius who ended his life without being understood. Because he jumped over common sense, he was actually a genius who brought about positive no common sense, but he was not understood by the world and was classified as negative no common sense. There are such examples, but why was he not understood? As an example
 
1. At that time, Christian culture was mainstream, so his antichrist thought was not understood.
 
2.Because he is a philosopher, he was too difficult to understand.
 
Of course, this is my opinion as a non-expert amateur, so I don't know if it's correct, but I think he would have been more appreciated if he worked hard to overcome these barriers. Especially in philosophical books, the sentences are too difficult to understand. Wouldn't he have been understood during his lifetime if he had changed it to an easy sentence that anyone could understand? I also think. Of course, this is my opinion, so some people may think that philosophical texts are valuable because they are difficult to understand. However, in this day and age, we have SNS, so if you post something online, someone might see it and appreciate it, but I think it can be said that there was no such convenience back then. In that sense, SNS can be said to create new value. If you use the good aspects of SNS, you might be able to help such buried human resources. I also think. I think it can be said that this SNS and the Internet society are creating new value that has never existed before = creating positive no common sense. Also, did the buried human resources have to have people around them who understood and supported them? I also think so. No matter how genius you are, you can't make a big leap without the support of those who understand you, and you end up wasting your talent. So what you should have is a friend, right isn’t it? People say that encounters change your life, and I think that's true.
 
To summarize what I wrote above,
 
1. If you try to go beyond common sense, you may not be understood or rejected.
 
2. And if it is not understood, it will be treated as non-common sense
 
3. However, even if it is treated as non-common sense, it will lead to understanding when you try o overcome it.
 
 In other words, going beyond no common sense and
going through this process, we can unearth hidden human resources and bring about further innovation in the world. By repeating this cycle, we can stop the negative chain, and it is thought that a cyclical process in a good sense will be born to make the world a better place. 
 
"Finally, isn't this something only a genius can do?" You might think that. However, this can happen to anyone without doing anything special. For example, even in our daily lives, if we want to be useful to someone, we can make the world a little better. For example, greeting everyone with a smile, or picking up empty cans on the side of the road when no one is looking. This is not an easy task that anyone can do. Little things like this can change the world. Besides, I think there are many other things that can change the world with a little idea. I think one example is to bring up innovative ideas that are different from others at neighborhood associations and revitalize the community. Anyone can do this, and at first they may be opposed and treated as insane, but as the number of supporters increases, that insane will eventually turn into common sense.

 

 

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